都合山鑑賞会
私が属する「日野町古文書に親しむ会」のフィールドワークで都合山に行くことになりました。今年の都合山は、新たな発掘調査があり、世間の注目を集めています。
参加者は「古文書文書に親しむ会」の9名と地元から1名、鳥取県立公文書館から2名追加の13名となりました。
伊藤先生、池本先生、日野町教育委員会の学芸員さんなど恐るべき観客に対して、ガイドとして挑戦するのは季節君です。
たたら初心者の方から研究者の方までガイドしなくてはなりません。難しい説明は避けてわかりやすい説明をしようと思いました。質問があればその時に突っ込んだお話をするということで対応しようと思います。
黒坂公民館から乗り合わせて出発。
近江畑に車を置いて歩いて急坂を登ってゆきます。
気合を入れて歩いていたら、歩くのが早すぎるとお叱りを受けました。
前回の現地調査では、観客として歩いていた季節君が「先頭が早くてしんどい」と文句を言っていたのをはっきりと覚えています。
気合の入れようで歩くときのしんどさが変わるんだなと、おかしなことで感心する季節君でありました。
途中で、道沿いに真砂土の崖があります。それを切端(砂鉄採取場)に見立てて鉄穴流しの説明をしました。
本当の切端に行くには、大変な山道を歩かなければならないので、ここで簡略化して説明です。
さらに歩くと、道が山の尾根を切り取るように通っています。

「この尾根の上には、実際に井出があって鉄穴流しが行われていたのですよ。左2KMの沢から取水していて、道路上に橋を渡し、右の200メートル先から谷に落としています。その下に選鉱場も残っています」
数年前に角田先生が発見された鉄穴流しの史跡です。
つまりここはすでに都合山の遺跡の中に入っているのです。
坂道を下って都合山遺跡の入口へ到着
15分くらい歩いたでしょうか。
上流には5か所の遺跡があり、下流にも1か所の遺跡があります。
今日見学するのは正面にある3か所の発掘調査の終わった遺跡です。
と説明しつつ、橋を渡って遺跡の心臓部へと歩を進めます。
山内集落、大鍛冶、砂鉄洗い場、本小屋、明治22から明治32年の高殿までを一気に案内しました。
ここは、20年ほど前に角田先生が発掘調査され、明治時代には俵博士も調査された近藤家のたたら場です。
現在は鳥取県指定史跡となっています。
ここから先が今年の発掘現場です。
金屋子神社前にある広場の第一発掘現場。
建物の基礎と炭が出ているので、炭小屋跡だったらしい。
その隣接する空き地にブルーシートがかけられています。
![DSC_0058[1]](https://livedoor.blogimg.jp/ken342/imgs/e/c/ec55e502-s.jpg)
ここが今回のメインの第二発掘現場。
江戸中期の陶器が出ている。
結構な大きさの高殿がある。
もちろん、小舟もあり、ぐるりを囲うように石が出ているので、しっかりとした地下構造が作られている。
以上の結果から江戸時代末期の西村家の遺跡だと想定されます。
そして、そこから川上に50メートルほど歩いて行った先には大量のかなくそが放置されています。
第三の発掘現場です。
ここに製鉄炉があったのは間違いない。縦長のトレンチを掘って調査したところ、焼けた土や粘土は見つかるものの、はっきりとした製鉄炉は発見できませんでした。
山際に水路があるので、その下に古い炉があるのではないかという意見でしたが、指定遺跡なので壊すわけにはゆきませんでした。また、もっと深いところに製鉄炉が埋まっているかもという意見もありました。
木炭が残っているので、年代分析をするそうですが、室町時代というざっくりとした予想が建てられています。
どうやら、高殿はなかった、いわゆる野だたらような立地でした。
今日の見学は移動を含めて2時間ほど。
先生方にいろいろと教えていただき、ガイドするより教えていただくことの方が多いくらいの、自分も勉強になった見学会でありました。
でも、楽しかった(笑)

