足羽家の舟場山鉄山操業の記録
前回にも書きましたが、このところ境鉄山融通会所諸事控という書物を読み込んでいます。面谷さんという方から翻刻されたものをいただいたのです。
この内容は、総括したものを簡単に説明したものはありますが、あまりに長いので詳しく記したものはありません。と思います。
そこで時間をかけて読んでいるのですが、今まで知らなかった事実が次々と出てきます。
その中のひとつに足羽伊右衛門が、融通会所から銀を借用し、舟場山で鉄山を操業したいとの申し入れがあったと書かれています。結局この借り入れは成されたようですので、舟場山を足羽伊右衛門が操業したということになります。
はて、この舟場山というのはどこでしょう。
舟場では3か所の鉄山と1か所の大鍛冶の遺跡を見つけています。
(間地道路工事によって埋まりわからなくなった遺跡が、ほかにもあった可能性はあります)
近藤家文書には以下のような記載があったと影山先生の論文には書かれています。
伊兵衛という人がたたらを操業したこと。
近藤家が大鍛冶をしたこと。
手島家が2度にわたって舟場山を操業し、そこには大鍛冶も併設されていたこと。
足羽家については記載がなかったように思います。
遺跡が4か所あって、創業者が4人。頭数は合います。
足羽という苗字は二部にあり、江戸時代から名字帯刀が許されるくらいの家柄です。多分その足羽家でしょう。二部に一番近いたたら場と言えば、峠に近いたたら山ということになります(ただ近いからというだけの理由ではあんちょくに過ぎるとの声も聞こえてきそうです)。
近藤家の鍛冶場はお寺の近くにあります。
いちばん大きなたたら場はヒヤ谷たたら。恐らく大鍛冶もあったはずですから、2回の操業をした松田屋(手嶋家)の可能性が考えられます。
ここまでの推論が正しいとするならば、お寺の直下にある投げ谷たたらが伊兵衛のたた場ということになります。
舟場山については根雨のたたらの楽校からも近く道路沿いにあるため、見学コースを作れないかと以前からのもくろみもあります。
ガイド資料を作るには、もう少し資料を探して勉強が必要ですね。