日野町では文化財保存活用計画が進行中です。
その計画の中に、根雨駅から近い舟場のたたら遺跡をガイドしようという試みがあります。
季節君はその土台となる資料を作ろうと、簡単な調査をしてみることにしました。
まず、伯耆国たたら顕彰会の遺跡調査報告書によると舟場には4つのたたら遺跡が見つかっています。
上流から「鈩山」「ヒヤ谷」「投げ谷」「投げ谷大鍛冶」です。この名前は発見者が便宜上その小字を付けています。この遺跡の由来を知らないといけません。
さらに近藤家文書に記載されている舟場のたたらは以下のようになっています。(伯耆文化研究7 影山猛)
  • 舟場山 文化2年 根雨伊兵衛
  • 舟場山 文政1~3年 松田家八十次 炉と大鍛冶
  • 舟場山 天保13~嘉永2 松田家政蔵 炉と大鍛冶
  • 舟場山 明治7~10年 近藤喜八郎 大鍛冶
近藤家の操業が1779年であることから、それ以降の舟場のたたらの様子についてはもれなく記載されていると考えてよいと思います。近藤家と舟場は地理的にごく近いですからね。
文書の中ではすべてが舟場山という名前になっています。非常にわかりにくいですね。
古文書や墓石に書かれている舟場山が全部該当してしまいます。

では、たたら顕彰会が見つけた遺跡と近藤家文書のたたら場はどのように関連付ければよいでしょう。
まず、いちばん予想が付けやすいのが、ヒヤ谷舟場ヒヤ谷たたらの調査 : たたらの里 奥日野BLOG (tatara21.com)
とても大きな遺跡です。当時、日野郡の大庄屋で名字帯刀まで許されていた大鉄山師の松田家(手島)の財力を以てすればこれくらいのたたら場は作れたでしょう。24年の間をおいて文政と天保の2度にわたって操業し、その間に少しづつたたら場が大きくなったと考えられます。
土地所有者のかたは大鍛冶があったという話は伝わっていないとおっしゃいます。
大鍛冶があったかどうかの調査が望まれます。
ということで、一つ目は「ヒヤ谷たたらは松田家の2度の操業」

そして、投げ谷横の大鍛冶について。じつは以前、島根県の角田博士にこの遺跡を見ていただいており、近藤家の大鍛冶で間違いないだろうと判定していただきました。小さな谷に面した小さな平面。
谷には椀型鍛冶滓がいくつか転がっていました。
まだ水路跡も残っており、新しい遺跡だろうなと予想は付きます。舟場山再調査 : たたらの里 奥日野BLOG (tatara21.com)
これが近藤家文書で言うところの明治7年の大鍛冶でしょう。
(ここで休憩。次回に続きます)