私の地元、鳥取県日野町に残る古文書整理のボランティアをしていました。
皆さんが下読みされた古文書を最終的に確認するという恵まれた役回り。
しかも県立公文書館の伊藤先生の補佐をするという大変名誉な役回りでありました。

私のもとに、一冊の古文書が回ってきました。
そんなに古そうではありません。
少なくとも江戸以降です。

表紙には上菅村鉄穴控(だったと思う)とあります。
日野町上菅地区の砂鉄採取場、その土地所有者について書かれているようです。
こんな古文書が突然出てくるから油断なりません。


昨年、島根県の角田博士が都合山(鳥取県指定文化財の製鉄遺跡)周辺で砂鉄の採取場(鉄穴場)遺跡を発見されました。
それは山から山へと水路が張り巡らされ、総延長は2Kmを越えます。
下原重仲の鉄山必要記事を読み込むと、水路の傾斜や、方位、地形、滝から走りの様子まで、あるべき姿が書かれており、都合山はまさに書かれている通りの鉄穴場だった驚きがありました。
その後、さらに大和大学の徳安先生が航空写真を分析され、都合山から上菅集落までの鉄穴流し跡を発見されました。
角田先生の遺跡はその一部だったようです。

ということで、今回見つかった古文書はその周辺の鉄穴場の地主を書いた一覧のようです。
都合谷、人向山、福長という地名が見て取れます。

日本最大の鉄生産者であった近藤家の蔵に眠っていた古文書には、
人向山→都合山→菅福山と10年ごとにたたら場を移動した記録や生産の様子を細かく記した文書があります。それを見事に反映している古文書でした。

今回見つかった上菅村鉄穴控に載っている小字(こあざ)を地図に落とし込み、辿って行けば、鉄穴の全容がわかるかもしれないと教育委員会の友人は言っていました。

残念なのは、私が油断していたのでカメラを持っていなかったことです。
鉄山師近藤喜八郎氏のお名前もあちこちに記載されていましたので、明治後期から大正10年頃迄の文書でありました。

もう一度最終確認をするときに、この文書が回ってくると思いますので、その時には必ずカメラを持って来ようと思います。
しかし、膨大な数の古文書ですので、いつどこでどんな文書に出会うのか、いつになったら終了するのか、さっぱりわかりません。