下原重仲講演会~新発見がいっぱい~その2
会場はまだ新しい江府町役場二階です。何と展望の良い会場でしょう。
こんな素晴らしいスペースをお持ちの江府町がちょっとうらやましい !o(*>▽<*)o。
役員諸氏のごあいさつの後、島根県立古代歴史センター長の角田徳幸文学博士が基調講演をされました。
内容は、下原重仲と鉄山秘書に関する広範なご説明でした。
鉄山秘書がどのような経緯で写筆され、存在するのか。
東大本、筑波大本、九大本と呼ばれるそれぞれの大学に保存されている本の内容の微妙な違い。
鉄山秘書の内容と見どころ。
重仲の大まかな人生。
その父、臨が経営した小峠鉄山の調査報告。
鉄山秘書の内容が遺跡調査などによる現地調査と非常に類似していて、現実を正確に伝えていることがわかる。研究資料として有効である。
などについて図解を交えて、丁寧に説明していただきました。
次に、江府町で地元の歴史を研究してられる橋谷氏がご講演をされました。
下原家の成立と、変遷についてお話になります。
家系図や俣野の見取り図も添えてあり、わかりやすい資料でした。
さらに、地元に残る灯篭や鳥居などの説明。
これは地元の人でさえ、時間をかけて調査しないとわからないようなものでした。
あちこちに、重仲と息子の恵助の名が刻まれており、重仲がたたらを廃業したという今までの通説が間違いであったことがわかります。
とくに『吉賀谷御鑪 森恵助昌興』と刻まれた灯篭
『吉谷御鑪 森恵助昌興』と刻まれた石柱の鳥居
の発見は、重仲の代でたたらが終わったわけではないことを証明しています。
ここで、「父を探して奥州へ」の朗読劇。
江府読み聞かせの会が、近藤家文書を題材にして朗読劇を披露され、恵助が青森まで旅をして父「重仲」を連れ帰る艱難辛苦の旅を語ってくださいました。
そしていよいよ最後のパネルディスカッション。
時間がかなり押していますが、季節君もここで登場です。
すぎはら氏が四苦八苦しながら無理難題を振ってきます(笑)
すごかったのが、高橋章司先生の発表。
ちなみに、日野町のたたら遺跡発掘調査では、角田先生と高橋先生が大活躍をしておられます。
今年の才之原遺跡、福長下ノ原遺跡発掘調査では高橋先生が解説をされました。
今回は下原重仲の「鉄山要口訳」の解説。
この文書は黒坂森家で発見された文献の一つで、山口屋吉兵衛(下原重仲のことね)の花押が入っています。
つまり、下原重仲直筆の貴重な文書なのです。
この表紙には鉄山諸用記抜萃と書かれていて、下原の作品にはもう一冊あることがわかります。
さらに、山口屋為吉分と書かれています。
山口屋為吉は、下原重仲の孫になるのですが、この文書は下原重仲30歳の時の日付(明和五年 子 十一月まで)があるので、孫がいるはずがないのです。
この謎を高橋先生が解明されます。
これは、重仲が書いた鉄山諸用記を為吉に抜萃させたもの。
為吉は鉄山師になるための修行中に書いたのではないかとの推測でした。
そのために、初歩的な誤字があったり、急に筆跡が雑になったりしているそうです。
最後のページに、日名山鑪にて之を写す とあります。
日名山鑪の場所も今日見てきました。
近藤家文書によると「黒坂村 鉄山師 恵助」が1820~1825年に日名山鑪を操業したことになっています。
つまり、かつて重仲が創業した日名山鑪は、恵助によって継承され、為吉も修行した場所だったことになります。
そのあと、高橋先生は時系列で重仲が書いた書物の解析を試みられています。
鉄山秘書はいつ書き始めて、いつまでかかったのか?=鉄山諸用記が「鉄山秘書」の原題だった可能性もある。
その間に鉄山要口訳があったのではないか。
さらに、前書きにあるように伯州日野の山人がたびたび頼まれて「鉄山必要記事」と名付けたのが、いつだったのか。
鉄山秘書自体は、さらにそれ以前に完結していたはずである。
それは重仲が大阪に発った日付と整合性があるのか。
などをぐいぐいと推理されます。
私は「そんなの聞いたことないよ」と驚く新事実ばかりでした。
私はパネラーでひな壇にいたので詳しい日付を覚えておらず、ここでいい加減なことを記載するのは遠慮しようと思います。現場にいた人たちに聞いてください。
さらにパネルディスカッションでは
★ なぜ重仲は、口外秘とされていた鉄山秘書を書くにいたったのか。(鉄山秘書自体にも、この本は人に見せてはいけないと書かれていますが、結局多くの写本を生んでしまいました)
★ 重仲が不況に至った原因はなにか。(大阪鉄座による鉄山不況の影響が大きい)
★ 今後、地元はどういった活動をすべきか。(下原重仲の功績を世に知らしめること、世に伝わっていることが必ずしも真実ではないので正確な調査を継続する事、地元に残る重仲の資料を早く見つけ、保存すること)
などを、熱を込めて話しました。
でも、季節君のお話は頓珍漢だったかもと、心配しています。
講演会の後、研究者の方たちと、部屋の片隅で少しお話をさせていただきました。
重仲が帰ってきてから、恵助や為吉が重仲の鉄山を継承操業していることは間違いない。
重仲が廃業したとする今までの通説は大きな間違いである。
もし、重仲がいい加減な形で出奔していたら事業承継はできていないはずである。
したがって、重仲はきちんと後始末をして諸国巡礼の旅に出たのではないか。
だから旅に長い時間がかかり、津軽の寺で出家することになったのではないか。
今後は重仲の名誉回復のためにも、そのあたりを検証する必要がある。
などの意見が出ました。
重仲についてはまだまだ調べることが多いなと実感しました。
また今回の講演だけでも、新たに分かったことがたくさんありました。
伯耆の国のたたら探しはまだまだこれからです。