福長下モノ原遺跡見学会
菅沢ダムの下流に福長というところがあり、道路工事が計画されています。
そこにたたらの遺跡があることから、今回発掘調査がおこなわれました。
一昔前まではたたらの遺跡は邪魔になるばかりで、調査されることなく破壊されていました。
しかし、近年になって、たたら場だって立派な遺跡だから調査しましょうという空気になってきました。
ありがたいことです。
鳥取県西部は、長年たたら遺跡の空白地帯と言われてきましたが、遺跡がないのではなく調査が行われてこなかっただけなのです。
確かにお金も時間もかかるのですが、一度壊してしまうと後戻りはできないので、調査資料だけでも残しておくべきだとおもいます。
行きがけの黒坂では、才之原遺跡の発掘現場にも突き当たりました。
以前調査報告会の模様を書いたことがありますが、現在も道路を片側通行にして調査が続いています。
通りすがりの通行人は、事故をしないように気を配りながらも、ちらちらと横眼でよく見ると、赤茶けた粘土の壁面などもみえるでしょう。
さて、根雨から20分ほど車を走らせると、福長遺跡の現場に到着です。
現場管理は徹底していて、道路沿いに安全管理者がたくさんおられ、コロナ対策もされていて頭が下がります。
6回行われる見学会の第2回目ということで、7人ばかりの見学者の皆さんが一段高くなった休憩所で待機しておられました。大半の人は午前の部で見学されたのでしょう。
現場を見下ろすと、中央に大きな丸い石で囲われた、炉と思われる部分が見えます。
担当者の方に説明をしていただくと、中世のたたらだという事でした。
(鎌倉から室町までね)
鳥取県内で発掘調査された中世の製鉄関連遺跡は10か所あり、そのうちで製鉄炉は6か所みつかっています。ほかは鍛冶炉です。
(たたら顕彰会では、まだ未発掘の遺跡を550か所ほど見つけています)
さらに、工事で掘ってたら、遺跡のようだとかいうのではなく、頭からしっぽまで本格的に学術調査を行ったのは今回が初めてらしいです。
この遺跡、表面は田圃になっていたために削りとられていて、地表部分は残っていませんでした。
発掘現場では丸い石が半円状に並べられています。
これはいったいなんでしょう。
見たことがありません。
新手のストーンヘンジでしょうか。
それとも、ミステリーサークルか。
おそらく、風を送るためのふいごを置いていた、ふいご座の変形したものだろうとのお話です。
製鉄炉が山から谷への中腹にあり、斜面と並行していることから、土が下流へ流出するのを防止する意味があって囲んだのではないかとのお話でした。
さらにトレンチ(試掘溝)にはいく層にも重ねられた粘土が見えます。
ひょっとしたらこの下にも、古いたたら場が埋没している可能性も指摘されました。
たたら場にはありがちなことです。
そして鉄滓を捨てたところが数箇所。
ひょっとしたら鍛冶場(鉄を鍛えるところ)が疑われるところもありました。
真っ赤に焼けた跡のある石も見つかっています。
でも、地表が削られているのではっきりした鍛冶炉の地形が出てきません。
いつのもように炉より斜面下側に向けて鉄滓が捨てられているので、斜面上方向に砂鉄置き場や炭置き場があったのでしょうね。
さらに気になるのが上屋の存在ですが、この遺跡でも地表が削られていたので、柱跡などが見つからず、どのような建物があったのかは分からずじまいでした。
でも、大きな柱跡が、予想されるところから出ていないことを考えると、高殿の形態はなかったとも考えられるのではないかと思います。(季節君にしては、ずいぶん慎重な言い回し)
しかし、この時代のこの地方のたたら遺跡であったこと。ふいご座と思われる石の配置が特殊であったこと、など今後の物差しになりそうな調査結果が出ています。
なお、私が放った草(隠密とも読む)の報告によると、この遺跡のすぐ上にもたたら場が眠っている可能性があるそうです。今後は調査主体を替えて調査を続けるということでした。
この遺跡のすぐ上方向と言うと……
私たちが休憩所として踏みにじっていた平地ではないですか。
o(゚o゚;)o 絶句……
そういうことは先に言ってほしいですね。
大変失礼を致しました。
今後の調査頑張ってください。