中海TVから金持神社について歴史的背景を教えてほしいと申し込みがありました。

季節君は伯耆国たたら顕彰会にも属していますが、日野町文化財保護審議委員にもなっています。
まあ、たたらと金持党についてのおはなしだろうとお受けいたしました。

取材当日は猛吹雪!
今まであれだけ穏やかな気候で過ごしてきたのに、季節君をあざ笑うかの天候の急変には困ります。

なんでぢゃ!

ロケ地にどこを選びましょうかという問いに、「金持党の話なら、宝篋印塔しかないでしょう」
と即答いたしました。
宝篋印塔は、金持景藤が後醍醐天皇を擁護し名和長年とともに船上山に出兵した際、もう二度とこの地に戻ることはできないだろうと覚悟を決め、建てた碑だと聞きます。
背後の山には大要害。金持景藤の本拠であったところ。いまでもお濠が残っているといわれていますが、遠目で見ても山の中腹に段差が見て取れます。山頂は平らに整地されているそうですが、この日はとても山登りをしようというような天気ではなく、行けば山中で遭難しそうでした。

というわけで、軟弱な季節君は下から眺めただけです。

平安時代末期、以仁王が平清盛打倒を決めたとき、逆に平氏に御殿を攻められます。いわゆる以仁王の乱なのですが、この時に孤軍奮闘した長谷部信連という武将が捕らえられ、平清盛によって追放されます。そしてこの大要害に2年間暮らしました。
当時鳥取県西部の守護であった金持党に預けられたのでしょう。

そして時は流れて、鎌倉時代末期。鎌倉幕府を打倒しようとした後醍醐天皇は策略に失敗し、この金持地区を通って隠岐の島に流されます。その後、新田義貞 足利尊氏らによって鎌倉幕府は倒され、隠岐の島を脱出した後醍醐天皇はくだんのごとく船上山で挙兵したわけです。
太平記には「金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ」と書かれています。
金持景藤は後醍醐天皇を奉じて京に上り、予想通り二度とこの地に帰ってくることはありませんでした。

大要害の向かいには鋭く切り立った山があり「小要害」と呼ばれています。
ここには見張り櫓があったそうです。
ようがい→ようげえ となるのはこの地の訛り。だから小要害の呼び方は「こようげ」と呼ぶようです。
猛吹雪の中、雪の止み間を縫うようにTV取材は終わり、なんとか季節君は宝篋印塔を建てることもなく、無事に生還する事ができました。