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製鉄遺跡のお話が続いてしまいますがお付き合いください。


ちょっとだけ前のお話しになりますが、谷中山と言うところに行きました。 近藤家が初めて鉄山を創業したのがこの谷中山です。そして何度かに分けて操業され続け大正10年に最後までやったのも谷中山だったと記憶しています。現在は木下家の持ち物のようです。(正確には上谷中山と下谷中山があります) 大正時代と比較的新しいところで山の中のため開発もされずよい保存状態で残っているらしいのです。ぜひ行ってみたいと思い、木下家御当主とお話した折に行かせていただくことをご了解していただいていました。


いつもどおり伯耆国たたら顕彰会の同僚と行くことになりました。日南町山上と言うところから入ろうとしたのですが道路工事中。 仕方なく大きく迂回してゆきます。こうなるともう土地勘のないものにはわからない小さな路です。これでも昔は備後街道という立派な名の付いた街道だったのですよ。と説明を受けながら車を走らせます。備後への道なので備後からやってきた近藤家にはなじみがあった土地なのかもしれません。



風情があってゆっくり山歩きしてみたい小路でした。


そして確かこの辺でしたが、、、とうろうろしていると小川の向こうに石垣が見えてきました。



車を止め、小川を渡ります。カメラを水没させるといけないので、防水カメラを持って行ったのですがこれが失敗。レンズの径が小さいためか写真が暗くなってしまいました。 あちこちに低い石垣が作ってあります。水路、金池(炉から出された鉄の塊を冷やす池)などが見て取れます。そして大きな柱の木が横たわっていました。



これが おったて柱ですね。鉄山は、炭となる木を伐採してしまうために10年程度を周期として移動を繰り返していたそうです。そして次にくるときの目印にと一番大事な本床(炉のこと)のある高殿の柱を残したのだそうです。柱は3本を確認することができました。


もう次にくることはないと知りながらも廃業するのに際して柱を目印に残していった、、、先人たちの気持ちはいかばかりであったでしょう。 さらに奥の壁山付近に金屋子さんの基礎石がありました。(壁山というのは炉の周辺に風除けの壁となる山を配置した地形のこと)



水車があったらしいところには柱が立ったままぽつんと残っていました。この柱もまもなく倒れてわからなくなってしまうでしょうね。 さまざまな配置も伝承どおり状態のいいまま残っている製鉄遺跡でありました。このままそっと残っていて欲しいなって思いながら、昔の人たちの残念な思いを考えると自然と無口になってしまう季節君でした。