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世界でも類を見ない優秀な日本のハガネ。その製法である日本のたたら製鉄を世界に知らせたいとの思いから明治30年代初めにたたら製鉄を調査しドイツで発表された東京帝国大学の製鉄の権威に俵国一博士がおられます。その論文の元になったたたら製鉄の調査地は伯耆の国 都合谷と砺波でありました。

都合谷は近藤家の製鉄現場でありましたが、調査されたのは夏。炉の火入れ(鉄生産)はされていない状態でした。しかし、都合谷は大鍛冶を備えた大型工場でしたので、鍛冶場での作業工程などを詳しく確認されたようです。鍛冶場では炭素量の多い鉄などを鍛えなおして錬鉄(炭素量の低い鉄)にし、延べ棒にして製品化したりという工程が行われます。都合谷の施設の図面なども俵博士によって詳しく測量されたものが残っています。

3年前に、角田学芸員によって、その都合谷の発掘調査が終わり、俵博士の調査地であると確定され図面に載っていなかった構造なども詳しく調査されました。

そして2年前に安衛門谷と呼ばれるところで砥波の発掘が行われました。しかし、その地は俵博士の調査資料に残る配置図と少し異なります。中央の立ち木周辺の平地に調査された、たたらの遺構があります。
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その後の調査のあと、発掘した砥波たたらは新しいものであること、砥波たたらといわれるところはもう1箇所あることがわかりました。古い砺波たたらの上には帝国製鉄といわれる昭和の製鉄所が作られていたらしいのです。ここの発掘が現在行われています。きょうはそのたたら場の発掘現場の現地説明会に参加しました。

どんどん山の中に入って行き、こんなところだと資材の運搬も大変だろうにというところに発掘現場はありました。しかし、こんな山の中だから炭にする雑木が大量に手に入ったわけでもあります。

穴ぼこがたくさんあり、何がなんだか分からない状態。角田学芸員に説明いただきながら地図を眺め、私のわずかなたたら製鉄の知識をフル稼働させて想像してみます。ここに7メートルを越すやぐらがあったり、元小屋と呼ばれる事務所や山内といわれる住居があってたくさんの人が住んでいたんだなって、、、やっぱ今では想像も出来ません。想像力の乏しい季節君ではなおさらです。
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まだ、ここが俵博士の調査地だと確定できない調査段階なのですが少しずつ理解が進みます。

しかし、帝国製鉄時代の設備の遺構もあり、そのしたに砥波たたらの遺構もありでさらに現場はややこしいのです。やはり事件は現場でおきてんだ!状態でした。



わたしが現地の理解に四苦八苦しているころ、現地のお年寄りがおいでなにりました。帝国製鉄時代にここで職員をしておられた方です。

この方のお話を伺いながら現場の学芸員のみなさんたちは帝国製鉄時代の配置を確認され、さらに 明治の砺波たたらの遺構を確定される作業をしておられました。お話をすみで伺っていてもわくわくします。土に埋まった穴ぼこやカナクソ、地層の色や土が焼けた跡。その一つ一つに理由があるんだなって感激してました。

んん、、、、、おもしろいぞ!調査発掘!!

このお話は、砺波たたらであると確認された場合は詳しく発表されることになると思います。