金持党にかかわる歴史
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源平の合戦のころの武将で、平家に楯突いた武将長谷部信連一族がこの金持一族のところに幽閉されたというくらい勢力のあった武将です。(のちに源氏が優勢になると長谷部信連は幽閉を解かれ石川県に戻ります)
その時代は風雲急を告げる時代でした。
源氏が鎌倉幕府を作りますが、十分な富の配分が行われなかった武士の不満が募ります。
源氏から権力を奪おうとした後醍醐天皇は隠岐の島に流されてしまいます。
しかし、後醍醐天皇は密かに本土に戻り、地元の武将 名和長年、金持景藤に両脇を守られながら京都に戻ります。
後醍醐天皇の倒幕号令に応じた足利尊氏や新田義貞により鎌倉幕府は滅びました。
これを建武の中興といいます。
後醍醐天皇は武士から権力を取り戻そうとしましたが、話が違うぢゃないかとふたたび足利尊氏が挙兵したため、後醍醐天皇はごめんごめんと吉野に逃れます。これを南北朝時代と呼びます。
その後、しばらくは南北の勢力争いが続きますが、足利尊氏に名和長年が討たれ、金持景藤も滅ぼされてしまいます。
そして、、、、日野町には金持(姓)を名乗る人がいなくなりました。金持ちがいないという意味ではありません。
今年、この埋もれていた歴史を再評価しようと金持景藤の石碑が立てられました。日野町においでの際は、金持神社とともに近くにある金持景藤や長谷部信連の史跡を探して見られてはいかがでしょうか。
ちなみに根雨にある 祇園神社、祗園橋、延暦寺などの建造物は、長谷部信連が京都を懐かしみ、根雨の町中を流れる川を鴨川に見立てて作ったと伝えられています。