さて、こんどは延慶本です。

この本も、平家物語なので、大変長いです。

ひらがな書で全12巻3500ページを越えます。

もうすでに活字になった本もあるので、何とかなりそうに思ったのですが、豈はからんや。
暇を見つけて読み進んでようやく見つけました。
以下に現代訳を書いてみますが、役職などで書かれた部分を人名に書き変えていますので、ご注意ください。

平家嫡嫡相伝して、抜丸という太刀があった。秘蔵の太刀であったのを、「頼盛に取らせばや」と正室(宗子)がしきりに申されたので、忠盛様がこの太刀を相伝されたのを、清盛は納得がいかなかった(清盛は正室の子ではない)。かの太刀は、忠盛の父正盛が夏のある日、この太刀を枕にたてて昼寝をしていたところ、ほかの人が見ていたことによれば、小きとかげの尾の青かりけるが、さらさらと腹這って、正盛の寝ている方へ向いて腹這って行けば、枕に立てたる太刀、人が抜いたわけでもないのに、半分ほど、さらと抜けたのを見て、このトカゲは恐れたようすで、やがて帰ってしまった。さて不思議の思いをして、正盛が寝ているのを起こして、「しかしか」と伝えたところ、誠に太刀が半分ほど抜け掛かっていたのであった。不思議な事である。それ以来、この太刀を抜丸と名付けて秘蔵されていた。清盛はこの大刀を所望したけれど、頼盛がお思いになったのは、「名高き大刀なるを、ありがたくして伝へたる上、平治の合戦のとき、悪源田吉平が郎従、鎌田正清の熊手にかけられて、危うく討たれそうになったのを、この大刀を持っていたからこそ、熊手の鎖を後ろさまにたやすく切り落として、命を助かっただけではなく、名を後代に残すことができた。この大刀がなかったならば、今まで永らえる事はできなかったであろう。そのうえ大殿(清盛のことね)嫡嫡のあとをつぎて、このほかの当家相伝の物の具といひ、財宝といひ、その数多く伝えて持っていらっしゃる。私は弟なので、世の重宝刀ひとつも相伝せずして、わずかにこの太刀ひとつばかりなり」とおっしゃって、再三所望があったけれど、ついに差し上げることはなくてお持ちになっていたので、甥の宗盛との仲も、よくなかったと聞いている。


どの本も同じように書かれているようで微妙に違います。
源平盛衰記では木枯と呼ばれていたころについて書かれていますし、平治物語では抜丸は大原真守の作だと書かれています。
この延慶本では、母の宗子が頼盛に太刀を与えようとしたこと。それによって、清盛との兄弟関係、甥の宗盛との関係も悪くなったことがわかります。

清盛の母は、早くに亡くなっているので正室の宗子は実子の頼盛をかわいがったのです。

この後、1181年、清盛は病死します。
宗盛は頼盛を置いてけぼりにしてさっさと都落ちをします。
しかし、宗盛は源平の合戦で捕えられ打ち首となります。
頼盛は源平の合戦に参加しなかったため、永らえますが、仏門に出家します。
おそらく、その後に抜丸は鎌倉府に置かれ、一時室町幕府にもあったらしいです。
しかし、室町時代に盗難にあい、いまだもって行方が知れません。

こうしてみると、抜丸は平家の宝刀であり、頼盛と清盛、宗盛を仲たがいさせるほどの宝物であったことになります。しかし、平家は滅んでしまったために抜丸は軽んぜられてしまったのでしょうか。

いっぽうの源氏の宝刀は鬼切。安綱の作であると太平記に書かれています。源満仲のころに有った刀は頼朝に受け継がれますが、平家に敗れた源氏は一掃されるかと思われました。ここで清盛は頼朝、義経の命を助けます。この甘さが命取りになって逆に平家が滅ぼされてしまうとは、歴史のおそろしいところです。そして、鬼切は源氏の宝刀として大事にされ世に残ります。源氏亡き後、斯波高経と足利尊氏との鬼切を巡る奪い合いで戦にまでなってしまうと太平記には記されています。

どちらの太刀も伯耆の太刀で、日本の歴史を変えてしまうほどの力を持っていたことを世間は知りません。
(-。-)y-゜゜゜ ふっふっふ