クライマックスを一気に読み解きます。



為義は老後、友切と小烏を嫡男の義朝に譲った。そのとき保元の乱がおきる。
義朝は保元の乱に勝利し左馬頭になる。その後、義朝(小烏を持っていたと思う)とその子頼朝は(友切を帯びて)戦に挑んだが敗戦する。

m(_ _)m

義朝は八幡大菩薩の夢を見て友切という名は縁起が悪いと知り、刀の名を髭切に戻した。



義朝は討たれて小烏とともに都の平家のもとに送られてしまう。
頼朝は身を隠していたが、髭切を熱田神宮に隠し、頼朝自身は流罪となってしまう。

(。ノ_・。)ウッ・・

21年後に頼朝は熱田神宮の髭切を持ち出し、決起する。その時、義経も頼朝のもとにはせ参じる。
木曽義仲が都を攻め平家を追い落とすが、その木曽義仲を義経の軍勢が攻め滅ぼす(親戚同士の勢力争いです。)
湛増別当が源氏の世になったのを喜んで(湛増別当も源氏の縁者らしい)義経に膝丸、またの名を吠え丸という刀を与える。

義経はこれを受け取って『薄緑』と名付けた。この刀を受け取ってからというもの、義経にあちこちの軍勢が味方するようになったのも不思議である。
義経はその後、刀の法力で一の谷、屋島の合戦を勝利する。
義経は平氏が持ち出した三種の神器を持ち帰るが、宝剣は無くなっていた。宝剣とは天叢雲剣・天のはば切の剣である。天のはば切とは大蛇を切った剣である。
(天叢雲剣も奥日野、奥出雲の剣であることをお忘れなく)


義経は頼朝と仲が悪くなったのを気に病んで薄緑の刀を箱根権現に献上する。

その後、この薄緑(膝丸)は頼朝のもとに送られる。源氏重代の髭切、膝丸が長い間分かれていたけれど、最終的に頼朝のもとで一つになったことはめでたい事である。


(めでたいけれど、義経はこの時、死んでしまっているのです。ちょっと悲しい)

 というふうに平家物語はなっています。
私が言いたいのは、伯耆のたたら製鉄の成立年代はわかっていません。
しかし、こういった名刀の伝説があるということから、源満仲の時代にはすでに伯耆の刀は国内に知れ渡っていたという事です。それまでに鋼の製法が確立していて、その鋼を求めて刀鍛冶が土着していた。
つまり、源満仲の時代960年ころには遅くとも刀造りが完成期を迎えていたのですから、たたらの成立はそれよりずうーーーーー→っと古いぞということが言いたいのでありました。
伯耆国たたら顕彰会の調査チームは、ただ今奥日野で520か所以上のたたら関連遺跡を踏査して(文化庁補助の報告書で出版して)いますが、地形や由来、位置の確認に留まり年代測定をするだけの力はありません。
したがって、伯耆はいまもって、たたら調査の空白エリアとなっています。
公的な調査が待たれます。