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2025年08月

都合山発掘調査現地説明会 令和7年 #3

西村家のたたら場から南に50メートル
そこには幅2メートル長さ10メートルほどのトレンチがまっすぐ掘られています。
ここはまたさっきのたたら場とは違って、一個の溝が伸びているだけの至ってシンプルなところ。
でも、足元には大小のカナクソが沢山積み上げられています。
炉から流れ出た跡も鮮明な流動滓や炉壁などもあることから、ここが製鉄炉の直近であることはわかります。
しかし、教育委員会の説明では、製鉄炉は確認できなかったとのことです。
指定史跡地域であることから、むやみやたらと掘り返すことはできませんし、土地を再利用するために、整地作業をしていたのかもしれません。
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なんだか、ドラキュラを埋めた跡のようですね。
高殿を作った痕跡もなくごく小規模な野たたらだったようで、時代的には中世かな?という予測のもと、年代測定を続けられるようです。
地下構造などが見れなかったので年代による構造の違いが判らないのが残念ですが、かなり昔から鉄づくりが行われてきたようであり、都合山のポテンシャルを感じさせる遺跡です。
たたら場に隣接する山際が削られているので「山を削って平地を作った旧来の方法ですか?」とお尋ねしたら、山際には水路が走っているのでその意味での整地でもあったのでしょうというお返事でした。
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その水路を辿っていたら、大先生が案内をしてくださいました。
さらに南に移動すると、斜面から土管が露出していて深い放水路がありました。
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土管があるということは近藤家の時代に作られたものでしょうか。
(写真の中央に小さく土管が写っています)
お約束で、その放水路に季節君が落っこちたのは言うまでもありません。
その土管の上に溜池がありました。
都合山で2個目の溜池です。
大きなたたら場では大量の水が必要だったため、2個目の溜池があったのではないかというお話でした。

その東側には、さらに2か所の未調査のたたら遺跡があります。
近藤家の山内集落より北に行けば、またべつの、おそらく近世のものと思われるたたら場と鉄山墓があるということです。
都合山周辺は調査すればキリがないほどの史跡であります。


都合山発掘調査現地説明会 令和7年 #2

さっそく季節君渾身の全体図を見ていただきましょう

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年代からも想像できたことですが、才の原遺跡に近い構造になっています。
(以前のレポート参照)
18C~19C頃の陶器も見つかっています。これも西村家のたたら場だと考えると符合します。

上から順番に見てゆきましょう。
高殿の境界と思われる跡の内側は砂鉄を置いておくところです。
そして、防湿構造となる床釣りの境界は石垣になっています。
才の原遺跡から連想すると、この石垣は地下2メートルくらいまで続いているはず。
その底には排水溝や坊主石などがありそうです。
炉の両側を守る小舟の屋根は落ちていました。
しかし、屋根部分に当たるドーム状の粘土の壁は溝の中に残っています。
そしてそのとなりにある平たい部分が鞴座だと季節君は考えました。
当然、鞴座の内側にあるくぼみが本床です。
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(覗き込んでいるところが小舟、鞴座-中央の大きな石のようなもの、わかりにくいが本床が低くなっている部分。手前のトレンチには石垣の並びが見える)

防湿壁となっている石垣が、ぐるりと取り囲んでいるのが特徴的でした。

これは、以前にレポートした福長下ノ原遺跡でも見られましたよね。

前の発掘調査をされた角田先生が近くにおられたので、近藤家の炉との比較をしていただけたらと、今になって思いました。

指定史跡なので樹木を簡単に伐採できないし、あちこちを少しづつ掘り下げた、つぎはぎのようなトレンチになっています。
でも全体図は、完成された高殿たたらの遺跡だなって印象でした。

あちこちの写真を撮っていたら、記録もつぎはぎのようになってしまいました(笑)

この後、もう一つの古いたたら遺跡の発掘現場を紹介いたします。
(つづく)



都合山は近藤家のたたら場として有名で、俵国一氏が操業の様子を調査し、角田氏がその跡を発掘調査されたことで、かなりの細部まで明らかになっています。それは鳥取県指定史跡となっています。
ほかにも5か所のたたら跡があるとされており、このたびは、その近藤家より古いたたらを調査したものです。

季節君はご近所の知り合いを載せて集合場所の滝山駐車場に行きました。
このかたも京都で地層のもぎ取り模型を作ったりされた、かなりのつわものデス。
集合場所の滝山駐車場にはすでに多くの車があります。
あまり知り合いがいないなって思ったのですが、じつは多くの研究者のかたがおいでになり、季節君が見逃していただけでした。
だって、いつもはスーツ姿で超然としていらっしゃる先生方が、くたびれた帽子に(失礼)くたびれた作業着でおいでになっているので、あまりのギャップにそれと判断できなかったのです。
いつも見てくれで判断してしまう、軽薄な季節君でありました。

近江畑までバスで移動して、そこから歩いて都合山まで。これが急斜面で年寄りとなった季節君にはつらい  (◎_◎;)
みんなに遅れないようにと必死の思いで歩を進めます。時間にしてみればわずかに10分ほど。

都合谷川の橋を渡って近藤家のたたら跡。夏草が少し生い茂ってしまっています。
さらに50メートルほど花口寄りに歩くと、溜池があり金屋子神社があります。
その前の平地を発掘調査されていました。
そこは無意味に整地されているはずもなく、私もその平地には何かあるだろうと思っていました。
ここが製鉄炉でしょうか?
結果として、建物らしき跡はあるものの、炭片があり、炭小屋跡ではないかと推測されます。

さらに川寄に20メートルほど移動した下の段の平地。
そこには沢山のトレンチ(調査用の溝)が穿たれています。
ここが、江戸時代末期から明治初めまで(1864~1869)操業された、西村吉左衛門のたたら場です。
季節君は記録用にデジタル動画を撮影することにしました。
結果として、解説者から離れすぎていたこともあり、声がうまく録音されていなくて失敗でした。
しかし、その動画などから季節君は平面図を作ってみることにします。
(つづく)

童子切 剥落 聖地巡礼するとしたら

オンラインゲームの刀剣乱舞でいよいよ「童子切 剥落」がデビューするというニュースを聞きました。
本音を言いますと刀剣乱舞自体は私にはよくわかりません。しかし、童子切はすこしわかります。

刀剣の中に、古伯耆ものと呼ばれる一群があります。
すなわち、平安から室町にかけて伯耆国で大原安綱一門によって作られた刀剣です。
童子切の聖地巡礼となると、私の思い当たるところが二か所あります。
伯耆に刀鍛冶伝説は多くありますが、よくよくたどってみれば、真守屋敷とか真守神社とかに行きつくことがあります。
これは、大原安綱の継嗣、大原真守を指します。大原真守自体も抜丸などの素晴らしい刀を作っています。平清盛と平頼盛がこの刀をめぐって確執があり、それが平家の崩壊につながったという説があるくらいです。抜丸は現在の所在が不明なのですが、もしこの刀が世に出れば、間違いなく国宝になるでしょう。
平家の宝刀が抜丸であるのに対して、源氏の宝刀が「童子切」だといわれています。
童子切の由来について私がくどくどいうことはありません。
ただ、私がその製作地だとにらんでいるのが日南町大原山と日野町大原の里です。

天叢雲剣(天皇家の三種の神器、あめのむらくものつるぎ)が出たという船通山の麓に大原山はあります。刀剣作りをしていた山伏がこの山で作ったのが童子切だと伝わっています。山伏塚もあり、近くから中世の小さな製鉄遺跡が見つかっています。日本三大鋼の一つと言われる印賀鋼の産地です。
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 山伏塚

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鍛冶場跡


また、日野町上菅駅周辺は大原という地名で、「昔出来の良い刀鍛冶がおり、成功してお城のような屋敷を持っていました。妻は刀鍛冶の師匠に当たる家がらで、花の御前と呼ばれていたそうな。二人は平和に暮らしましたとさ。」
という伝承が残っております。上菅の駅舎内には安綱にまつわる解説パネルが多くあり、歩いて15分ほどのところに大原神社と花の御前の神社が並んでいて、今でも地元の人に守られています。
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さらに歩いて20分の所に都合山というたたら跡があり、現在発見されている4つの遺跡のうち2つがいままでに発掘調査されています。そしてタイミングのいいことに今年の8月17日に現地で発掘調査説明会が開かれます。

日南町大原山、日野町上菅大原の里、どちらもたたらによる和鉄の大生産地の真ん中にあり、そこから生産された和鉄の恩恵を受けて作られた太刀が童子切だと考えられます。

童子切 剥落 の聖地巡礼をするとしたらこのあたりになるのではないでしょうか。


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