ローカルな話になって恐縮ですが、日野町に都合山というたたら遺跡があります。そこから山一つ隔てたところに人向山というたたら遺跡があります。
この周辺にはたたら遺跡が多く集まっていて、砂鉄採取のための鉄穴流し跡も多く残っています。


昨日、日野町の古文書整理ボランティアをしていました。
古文書を読むのはまだ修行中なのですが、そんなことを言い分けしていても作業が進まないので、無理を承知でずんずんと作業を進めます。

その作業中に都合山と人向山の古文書が出てきました。
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明治三年
「奥日野郡上菅村 畑村 御運上処書上帖」
午二月  庄屋 上菅村 改蔵配下

中身は人向山と都合山の関係者に支払われる経費を書き上げたもののようです。
つまり、周辺集落の人たちの勤務先として人向山と都合山があり、その時に応じて運用している鉄山で働き収益を得ていたということです。
都合山が稼働しているときに人向鉄穴を休業し、維持管理費や休業補償を受けっていたような記録もあります。
明治の初めの人向山は緒形家や西村家が支払人であり、都合山は近藤家や西村家が支払人となっています。鉄山はたびたび売却されて持ち主が変わっていたようです。
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奥書
御運上銀惣〆百弐匁六分 内 七拾八匁 山柄役
              拾五匁五分 鉄穴役
              九匁壱分 藪役
畑村都合谷山
一鍛冶屋一軒       願主 月瀬村
 御運上銀六拾目     西村喜右衛門
右之通御運上処入念取調帳面差上
申候処相違無御座候以上   組頭上菅村 平七
明治三年午二月       庄屋同村 改蔵
入江作治郎様


月瀬村の西村喜右衛門なる人物は、現在の上石見の大鉄山師、西村一族です。
明治2年には本家西村家の西村吉左衛門という人が都合山鉄山を操業しています。

明治20年代、近藤家が人向き山を操業し、その後明治30年頃に都合山移転したのも上菅周辺の人を雇用し続けた運用の一環だったと考えることもできます。
たたら場のお引越し : たたらの里 奥日野
古文書を見つけるたびに、当時の人たちの暮らしぶりがわかって興味がわいてきます。