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2025年01月

奥日野各地のたたらについて聞き取り調査事業を行っています。
すでに、日南町、日野町、江府町を終えています。
昨年、伯耆国たたら顕彰会は会長を交代しましたが、新会長が怠け者なので(私の事ね)まだ南部町が終わっていません。
そこで南部町教育委員会にお願いして、南部町のたたらに詳しい方を紹介していただきました。
会場となったのはキナルなんぶです。
この建物は、お洒落な看板ですが文字が小さくてわかりにくい。
しかし中に入ってびっくり。素晴らしい建物です。
図書館があり、喫茶室があり、博物館があり、二階は会議室がいっぱいあります。
ロビーにはくつろげるスペースがあって、子供たちがいっぱいいました。
思わずここで暮らしてみたくなりましたね。

2階の会議室では、3人の南部町民のかたがおいででした。
一人目のかたは、いきなり、鉄滓をならべて熱弁を始められます。
弥生土器と鉄滓が一緒に出土しているので南部町には西暦0年頃に製鉄が行われていたのに間違いないと持論を展開されます。
しかし、その土器が果たしてその時代のものなのか季節君にはわかりません。
「勝手に遺跡を発掘してはいけませんよ」と申し上げたら
「地表に転がっていたものだから持って帰ってきた」とおっしゃいます。
それでは、土器と鉄滓が同じ地層にあったことになりません。
「製鉄は大陸から伝わった技術であり、近くには砂鉄を掘った穴もある」
とおっしゃるので「大陸から伝わった古代の製鉄は、鉄鉱石を原料としたはずです」と申し上げました。
さいしょに弥生時代の製鉄跡があるとお聞きしてびっくりしましたが、なんだか話がかみ合わなくなってきました。
ただし、何らかの製鉄遺跡が埋まっている可能性は排除できないので、位置を記録に残しておく必要性は感じます。

お二人目には、奥山たたらの遺跡についてお話を伺いました。手書きながらしっかりした地図をお持ちになり、遺跡の位置を詳しく教えてくださいます。鎌倉山のふもとあたりになります。
三叉路の突き当りで、現在は杉山になっているあたりに金屋子神社があったようです。
手水鉢や灯篭の笠があったということでした。ちなみに手水鉢はすでに持ち去られたらしく、現在は見つからないということでした。
さらに金山神社の大カナクソ(再結合滓)についてもお話を伺いました。私も見たことがあるのですが5メートルくらいもある大きなものです。
大きすぎて移動させることができず、そのうえに家を建てたというスケールの大きな話も伺いました。

三人目のかたには旧西伯町の大木屋付近のおはなしを聞きました。金屋子の祠が今もあり、中にはきれいに磨いた鉄滓が入っているそうです。さらに亀の焼き物も一対あるそうです。たたらでは水が大事で、水の守り神として亀を祀ったらしいのです。
金屋子で亀を祀ったという話は初めて聞きましたが、素敵な話です。こういう話が聞けるから、各地の伝承を記録しないといけないのだなと思いました。

私の会の調査では南部町に50か所を超えるたたら関連遺跡があるのですが、教育委員会のお話を聞くと、地元ではいまひとつたたらに関心がないのかなと感じました。

日野町では「文化財保存活用地域計画」が策定され、文化庁から認可を受けました。
現在はその推進に向けて日野町教育委員会が中心となって活動している最中です。
私も一委員として微力ながら活動に参加しています。

根雨のたたらの楽校とその周辺は、近藤家を巡る多くの文化財が集積している地域です。
近藤本家(鳥取県指定文化財)、出店近藤家(たたらの楽校)、山陰合同銀行跡地(近藤家設立の根雨銀行が基になっている)、公会堂(国登録文化財)、勝瀬家、酒近藤家、本陣の門、根雨本宮(鳥取県で最古の神社建築)など。
これを観光の目玉にするべく磨き上げを行うのですが、さらに観光要素として深みを出すために舟場の鉄山遺跡もそのファクターに加えようと考えており、そのためにはもう少し舟場山の歴史について掘り下げておく必要があります。
舟場山と呼ばれる鉄山群については以前から調査を続けていて、鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷の大鍛冶跡を確認しています。(鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷はたたら場跡。大鍛冶は近藤家が操業したことがわかっています)
その資料として故影山猛先生が伯耆文化研究で発表された「近藤家による鉄山」を参考にしました。
影山先生の論文には3か所のたたら場が記載されているのですが、それ以外にもたたら場があった可能性が出てきました。

以前紹介した境鉄融通会所の足羽伊右衛門のたたら(足羽家の舟場山鉄山操業の記録 : たたらの里 奥日野BLOG)はどうやらこの論文には書かれていないようです。

さらに今日「舟場の部落誌」で見つけた記述には、正音寺の過去帳からの調査で鉄山墓の記録がありました。
鈩山たたらでは明治8年に4人。明治10年に2名が死亡しています。
ヒヤ谷たたらでは文政8年に1名。明治1年に3名が死亡しています。

いずれも近藤家文書を解読された影山先生の論文にはたたら場としての操業記録がありません。やはり論文にはすべてのたたら場がもれなく記載されていると考えるのは無理があるようです。
調査するにつれて舟場山の鉄山群については、その実態がますますわからなくなってきました。

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