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2024年10月

第11回令和のふいご祭り その2

10月27日当日
朝7時に集合です。
そして、トラックから荷物おろし。
組長の指示のもと、基礎を組み立て鉄パイプを建てます。
それに耐熱シートを貼り、あっという間に完成。
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指揮官が優秀なのと、組み立てることに皆さん慣れてきたのでしょう。

村下さん(技術長)は縦型炉を組み立てていました。
我々が脚立などの工具類を片付けて営業準備が整った頃、村下さんはトーチで炭に着火。
この小さな火が、やがて炉全体を熱し、砂鉄を溶かす炎となるのです。

まずは初種。
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緊張気味に砂鉄を投入し、炭を追加します。
これから、延々と(といっても夕方には終わります)砂鉄と炭の投入を繰り返し、それがやがて鉄の塊となるのです。
砂鉄15Kgを予定しています。

お昼過ぎには一度、ノロを抜いてやります。
砂鉄は酸化鉄とケイ素でできているので、砂鉄を加熱して溶かすことによって酸化鉄とケイ素が分離します。その上澄みとなっているケイ素を適度に抜いてやるのです。

ここまで見届けて季節君は会場を後にします。
今日はたたらの楽校で無料ガイドをすることになっています。
久しぶりのガイド活動に『はて?上手くできるかしら?』と適当に不安になる季節君でした。
まあ、これくらいの緊張感をもって事にあたったほうが失敗がなくてよろしい。
歴史マニアの方たちが10人ほどお集りの中、なんとか1時間でお話を終わりました。この1時間というのが微妙なのです。
ちょっと深く突っ込むと2時間や3時間はかかってしまいます。
全部話してしまうのではなく、あと少しというところで話をおわる。この微妙な匙加減が大変に難しい。
なんとか1時間で話をまとめ、今日は近藤本家さんが屋敷の中を見せてくださるというのでそちらに移動しました。
屋敷は鳥取県指定文化財に指定されていますが、中までは普段見ることができないのです。

ガイドが終わって、会場に戻ると、炉は解体されすでにけら(鉄の塊)が出ていました。
今年は7Kgほどの鉄ができたそうです。
うちのムラゲは、驚くほどの鉄を絞り出します。
砂鉄15Kgからだとするとほとんどロスがなく鉄になっている計算です。
こうして作られた鉄塊はすでに11個になっている計算です。
そろそろこの鉄塊を使って何か作ってみたいところです。
しかし、この鉄は均一でないので、鍛錬してやらないとどうにもなりません。
さて、どうしたものかと思案のしどころ
誰かアドバイスをくださいと、沈みゆく西日に向かって叫ぶ季節君でありました。

10月26日は根雨神社の例大祭。
たたら顕彰会のメンバーも何人か御幸行列に参加していました。
季節君も神榊をもって歩きました。
神榊には天之叢雲之剣や 八咫鏡、八尺瓊勾玉がぶら下げてあって、結構重かったです。
あめのむらくものつるぎ といえば、船通山で八岐大蛇が持っていたとされる剣です。大蛇が酒に酔いつぶれたり若い娘をかどわかしたり、剣を持っていたりするのはどう考えてもおかしい。それに剣があるからにはそれを作った人もいるだろうと思います。
これが船通山に鉄づくりをする集団が居たとする説です。
船通山にはおろち神社と伝わる祠があるそうです。
そこには鉄滓が残り、黒雲母鉄鋼の鉱脈があるという。
ある研究者が、その黒雲母鉄鉱石から縦型炉でたたらを吹いたところ鋼を抽出できたとのこと。
そしてその鋼を使って刀鍛冶が日本刀を作ったそうです。
この経緯はすでにたたら研究会で論文になっています。

たかが秋祭りの飾りでここまで語れる季節君はすでに変人の域に達しています。
根雨の町はこんなにも広いのかと驚くほど歩き、くたくたになった頃に祭りは終わりました。

さてこれからが、ふいご祭りの準備です。
自転車に跨り、たたらの楽校根雨学舎に向かいます。
既に7人の侍たちが2台のトラックに備品を積み込んでいました。
おおお!頼もしい限りです。

第11回ふいご祭り

10月27日に日野町役場にて令和のふいご祭りを開催いたします。
ふいご祭りとは、大鍛冶で一年に一度仕事を休んで日頃のストレスを発散した故事にちなんでいます。

今年はミニたたらのワークショップと、たたらの楽校無料ガイドをします。

ミニたたらでは、熱により砂鉄を溶かし不純物と酸化鉄を分離します。さらに酸化鉄に対して一酸化炭素ガスを通過させ、脱酸素を行って金属鉄にするという化学反応を起こさせます。
朝9時ころに火入れを開始し、午後には溶けた不純物が真っ赤に熱せられて炉から流れ出すというノロ出しが見られます。

午後1時にたたらの楽校においでになると、無料でガイドを受けられます。
申し込みは必要ありません。
皆さんお誘いあわせの上おいでください。

tatara

日南町阿毘縁川平山遺跡に思う

これは季節君の勝手な妄想です。
おもしろい遺跡を見せていただいた興奮に浸りながら、一晩じっくり想像を巡らせました。
この感想については一切の責任は負えませんので、あしからず。

今回発見された遺跡は、私が今まで見てきた中で一番小さい遺跡だと思います。
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写真のとおり、山の斜面を削り取ってごく小さい平面を作っています。
古い時代は、道具も少なく大きな平面を作ることができません。
湿度を防ぐ手段もないので、水の来ない乾燥した高台で製鉄をします。
今回の炉は、小舟がなく防湿構造が未熟です。
炉の周囲に小さい穴を掘って小舟がないか確認されたそうなので、たぶん小舟は存在しないと思われます。
大舟にあたる部分も55cmほどの溝状に掘り下げただけ。
おそらく炉底を叩きしめて、炭を入れていたのだろうと推測されます。
鉄を取り出した際に、炉底も浚えてあるため、詳しいことはわかりません。
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そして、地形的には切り開かれた山の斜面から炉までの距離が非常に短いのです。
山際すぐそばに炉があります。
そこには近世ならふいご座があるはず。
これでは炉の横に大きな設備は作ることができません。
そして炉底にも石を詰めたりはされていないようです。
ちょっとだけ炉底に傾斜があり、ノロを排出するためかなと思ったりします。
確か大山の平安時代の遺跡にも似たような構造があったはず。


このようなことを考えていると、中世とはいえごく早い時期ではないかと思えるのです。
日南町大笹奥新田遺跡の場合は中世末期なので大掛かりな地下構造がありました。

そう考えると、ここは中世の早い時期ではないでしょうか。
もし、1000年頃の平安時代なら、大原安綱の時代になります。
奇しくも、大原安綱の伝承のある山伏塚からはほんの眼と鼻の距離。
ここで作られた鋼で安綱が童子切を作ったらなんてことが頭をよぎります。
その可能性が出れば、日南町に町有力な観光スポットが誕生しますね。
現代の非破壊検査を以て安綱の刀を分析する。。。。なんてことは絶対無理なんでしょうけれど




日南町大原 川平山たたら現地説明会

日南町阿毘縁の大原山に砂防堰堤を作ることになり、昨年あたりから現地にあるたたら跡の発掘調査が行われてきました。
この度その調査が一段落したということで、現地説明会が開催されました。
大原山と言えば、平安時代に伝説の刀工大原安綱が山伏として流れ着き、そこで生産される鋼に惚れこんで刀づくりを始めたという伝説の地です。
季節君としては、ぬあんとしても行かねばなりません。

という訳で、気がはやり,かなりフライング気味に到着してしみました。
まだ、だーれも来ていません。

近接する事務所で待っていたら、よく知っている顔があちこちにみられるようになりました。
やはりたたらマニアの世界は狭いのです。

発掘担当の先生に連れられて山に入ります。幸いにもここの現場は道路からすぐそばでありました。
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かわひら

古い順に
①中世の炭窯跡
②中世の炉跡
③明治の炭窯の跡(取り除きすでにない)
が見つかっています。


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手前が中世の炭窯跡。奥が製鉄炉。奥右の白っぽいところはトレンチで真砂の地層です。
正直、私は炭窯などどうでもよいのですが、中世の炭窯はおそらくたたらに使うための炭を焼いたのだろうと推測されます。
問題の製鉄炉は長さ5.8M 幅1.0M 深さ0.55M の地下構造を持っておりました。
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近代の炉と比べると幅がせまく地下構造もすごく簡単なものです。
地下構造は長いのですが実際に炉があったのはもっと短いだろうとの推測です。
2本の柱の跡があることから、簡単な上屋があったようです。

山際からの距離が短くってふいごや砂鉄置き場が作れないねとか、炉底が斜面になってるのはノロを流し出すためだったのだろうかとか、いろんな推測を見学者の間でワイワイガヤガヤ。
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当然ながら大きな流動滓があります。

見学者に中途半端な知識があるだけに、説明している先生も、やりにくかっただろうなと思います。
楽しかったけれど、お騒がせしてすいませんでした。
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帰りがけに見ると、ほんのすぐそば数百メートルに大原安綱の居たとされる伝説の地があります。
ただ安綱は平安の人。今回の遺跡はどれくらいの年代測定がなされるのでしょう。
どちらにせよこの近辺はさかんに鋼作りが行われてきた歴史が証明されました。

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