舟場山という名の四つの遺跡 続編
前編でヒヤ谷遺跡と投げ谷横の大鍛冶場について考察しました。2個をクリアしたところで考えます。
3個目となり分かりにくいのが投げ谷遺跡。
外観は、街道沿いにあり舟場集落とも近い。二面をきれいな石垣で造成されていて、その石垣沿いにかなくそが捨てられている。上部平坦面は20メートル四方ある。
投げ谷のたたら場は山すその開けたところで街道沿い、村近くという利便性を重視した位置にあり、近世以降にありがちな形です。
石垣で造成しているのも、新しい時代の特徴です。
平坦面が20メートルというのは、あきらかに高殿を意識して作られており、古い野だたらではありません。
以上の事から、近藤家の記録に残る1779年以降のたたら場であると仮定し、消去法で文化二年の根雨伊兵衛のものであると考えました。
最後に残るのが鈩山たたら場発見!たたら山の巻 1 : たたらの里 奥日野BLOG (tatara21.com)
さらにたたら山再調査の巻 : たたらの里 奥日野BLOG (tatara21.com)なのですが、近藤家文書に記載されている4つのたたら場はすでに決めてしまいました。
どうしましょう。
ところが舟場のたたらについて記載があるのは近藤家文書だけではありませんでした。伯耆誌には間地山というたたら場が舟場に存在することになっています。(伯耆誌成立は1734頃か?)伯耆誌の成立以前のたたら場であることから考えて近藤家に残る操業記録以前のたたら場であるのは間違いありません。
遺跡の外観は街道から30メートルほど道をはずれて山中に入り、急斜面を切り開いて階段状の平地を作っています。どの平面も小さく高殿は建てられそうにありません。おそらく野たたらでしょう。遺跡の端に丸いくぼみがあり、落ち葉を取り払うと粘土の採掘穴でした。石垣等も作られておらず人目につかないように街道を見下ろす山の中にあります。
人目につかない山の中にあり、小さな野だたら。石垣もない。
これはすべて、古いたたらであったことを示しています。
すぐ先が間地峠で間地集落に近い。
そう考えると、ここが伯耆誌で言うところの間地山の可能性がつよいのです。
なお舟場部落史によると、近藤家と舟場村との間で村議定書が作られているので、舟場の入会地であった鈩山が近藤家のたたら場ではないかとの考察があります。
しかし、近藤家自体が舟場には大鍛冶しか操業していないと記録しています。
実際、近藤家の村議定書でも「鍛冶場1軒にても2軒にても勝手次第」と鍛冶場の建設にしか触れていません。
さらに鳥取藩史では、たたらをするときは村との間に議定書を締結するよう指導しており、個人所有の土地でも村所有の土地でも村議定書は存在するようです。だから、鈩山ではなく投げ谷の大鍛冶場建設の際に村議定書が作られていた可能性が高いのです。
結論として季節君はこう推定します。
投げ谷たたら⇒文化2年の根雨伊兵衛のたたら
投げ谷の大鍛冶⇒明治7年の近藤家の大鍛冶
ヒヤ谷たたら⇒文政年間と天保年間の松田家のたたらと大鍛冶
鈩山⇒伯耆誌の間地山でそこそこ古い
ただ、投げ谷のたたらと大鍛冶はペアではないのか?とか
ヒヤ谷に本当に大鍛冶跡はあるのか?
間地峠道路工事の際に消失したたたら場もあったのではないか?
など疑えばキリがないので断定的なことは言わないほうがいいのかもしれません。