奥日野の領主=福田久道家譜を読み解く
江戸時代の鳥取藩は、有力家臣が領地を預かり、それを治めるという自分手政治が行われていました。奥日野の場合、福田家が領地として自分手政治を行っていたため、日野町古文書に親しむ会では「福田久道家譜」を解読しました。
コロナの影響もあって、たびたび会合は中断し、120ページを解読し終わるのに3年を要しました。
それは季節君が、古文書を読み解くのに時間がかかったためでもあります。
おかげで、この文書を読み終わるころには、右筆が書いた文字なら少しは読めるようになっていました。
このたび、全文を読み終わったことを記念して、ワードで清書してみました。
それは60ページにもなりました。
改めて読み直してみて、いろいろ面白いこともわかりました。
その一部を紹介します。
初代、福田牛之助は豊臣秀吉に仕え、城州(山城の国、京都の南)葛野村を領地とします。
慶長6年。福田和泉が池田忠継に仕え、岡山に移ります。
寛永9年。福田内膳のとき鳥取藩と岡山藩が総入れ替えになり(お国替え)鳥取藩に移ります。
領地を黒坂周辺17か村に与えられ、自分手政治を始めます。
~それから、いろいろと起こりますが割愛~
安政元年、福田丹波は異国船の警戒に駆り出されます。
文久3年。福田造酒が急遽黒坂警備を命ぜられます。
それはなぜか。
元治元年。京都から作州路を通り、20人の藩士がやって来ます。彼らは黒坂で慎みを命ぜられました。
これがいわゆる本圀寺事件。当時の鳥取藩は幕府支持に傾いていたのですが、一部の尊王攘夷派の藩士が京都本圀寺において、鳥取藩重鎮を暗殺しました。クーデターを起こし黒坂に押し込められたのが、因幡二十士です。
この警備のため、多くの兵士が黒坂を守りました。
帯刀の他国者は宿してはならない。逆らうものは討ち取っても苦しからずとか物騒なことが書かれています。
慶応元年、福田造酒は長州討伐を命ぜられ、2番手として出陣します。
明治三年。ご改正により、福田毎男は、日本政府に領地と家臣を返上しました。
こんなことが120ページにわたって書かれているのですが、たたらについては一言も書かれていません。
やはり、幕藩体制の基本となったのは米。
領地はそこで採れる米の石高で表されます。
やたらと石高のことばかりが書かれていました。
少しくらいはたたらのことも書いてあるかなと思ったのですが、かすりもしませんでした。
たたらの繁栄は福田家を潤すことはなかったのでしょうか。