先日、日野町古文書整理のボランティアに参加していました。
山のようにある古文書を、手分けして整理しています。
古文書のタイトルや記載年、筆記者をカードにしてリストを作っていました。

その日、私は明治八年の文書の束を調べていました。
その中に、ある集落の「建物控え」がありました。
当時の固定資産台帳のようなものでしょうか。
記載年や筆記担当者の名前はありません。
そこで勘の良い私は「この集落にはたたらがあったな」と気づきました。
普通は文書の中身まで読んだり、という面倒なことはしないのですが、このときは文書の精に呼ばれたのでしょうか?
何やら胸騒ぎがして1ページずつめくってゆきました。
本当はこんなことをしていたら、時間がかかって仕方がないのですが、中身を読むのは面白いです。
すると、20ページほどめくったところにたたら関連らしい建物名が記載されています。

おそらくここは、季節君が以前調査したことのあるたたら場でありました。
しかしその時は、きちんと場所を特定することもできませんでした。
いわば、私にとっての幻のたたら場です。
季節君は小さくガッツポーズをしてしまいました。

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本小屋や高殿と思われる建物があります。
大鍛冶が二軒あるところからかなり大きなたたら場だと思われます。
折場もあります。
雪隠がやたらと多いのはなぜでしょう?
職人の半分が通いで、半分が住み込みだと想定すると、長屋が多い事から職人数もかなり多そうです。
だからトイレが多いのかなと思ったりもします。

そして、なんという偶然でしょう。
私のとなりで整理をしていた人が、地図を発見されました。
しかも同じ村の地図です。
こんなことがあるでしょうか。
季節君は、思わず万歳を叫んでしまいました。
ばかです。

かなりの枚数で綴られた地図には、全体図と部分拡大図が記載されてありました。
これには建物は書かれていません。

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番地から行くとこのあたりです。

今までの調査でも、このたたら場の存在は知られていましたが、もし明治八年頃の資料だとすると今までの定説が全く覆されてしまします。
それに、公文書でここまではっきり建物の構成が記されているのもめずらしいと思います。

地図も30ぺーじくらいありましたし、精査するとさらにわかってくることもあるでしょう。

古文書調査も大切です。
これからはもっと気合を入れて古文書整理のボランティアを続けましょう。