下原重仲に関する一考察
2021年11月21日江府町役場において下原重仲に関するフォーラムが開催されました。
下原重仲の故郷において、その業績を振り返るという画期的な試みです。
江戸時代に書かれた鉄山必要記事については、いまさら述べる必要もないでしょう。たたら研究の世界においてはあまりにも有名な書物です。
しかし、その著者下原重仲についてはあまり述べられることはありません。
それは、著者の活動の地が鳥取県の山中にあり、研究機関からはあまりにも遠い地であること。
地元では逆に、鉄山必要記事自体を知る人が少ないこと。
等により研究は進んでいませんでした。
しかし、今回のフォーラムによって多くの新発見がありました。
先のブログでも記したように、下原のもう一冊の書物鉄山要口訳についての新たな研究結果も発表されました。
さらに、地元研究者によって江府町に残る碑文などが見つかり、調査に深みが出ました。
ここでわたしたちが注目したのが、下原重仲が破産したかのような扱いを受けているがそれは真実であろうか?ということ。
近藤家文書には『重仲は大阪の鉄問屋に金策に行き、それに失敗すると東北に遁走した。残された家族は極貧の中で重仲をさがし、二男の恵助が艱難辛苦の末、東北まで父を訪ねてゆく』といった内容が記述されています。
これをもとに重仲のイメージが作られてきたのです。
しかし、重仲が帰郷したのは1796年。近藤家が重仲についての物語「孝行者擢書」を書いたのは1860年。
このあいだに64年もかかっており、当時のことを知る人はもちろんみな亡くなっています。
重仲の一家をほめたたえるために美談に仕立て上げた可能性もあります。
実際はどうだったのでしょう。
フォーラムに参加された研究者のかたによれば、重仲が金銭的にトラブルを抱えていた痕跡は全く見つかっていません。そもそも、借金を背負っていた人が藩外に出るには通行手形を得ることが難しいとのこと。
重仲帰郷後、長男の仙助は庄屋を務め、二男の恵助は鉄山経営をしています。
吉谷鑪、日名山鑪、吉子山鑪など。
各地に残る重仲と恵助の碑文がそれを記しています。
近藤家文書には、黒坂の鉄山師として森恵助の名前が挙がっています。
重仲が書き、孫の為吉が写した『鉄山要口訳』には「日名山鑪にて之を写す」と書かれています。
孫の代にも重仲によって日名山鑪は操業されていたのです。
数々の新たな事実がわかってきました。
貧困のどん底にあった家が庄屋になったり、たたらを操業したりできるでしょうか。
そういった家名を得るには、財力だけでなく藩からの許認可も必要です。
といったことから、以下のような推測を立てました。
当時の重仲は鉄の流通が大きく変わったことを知り、大坂鉄座と大坂の町の様子を視察するために、大坂に行った。(鉄座の設定により鉄価格は暴落しました)
鉄の流通や問屋の対応を見て、今は鉄山操業には不向きな時期であることを悟った。
そして、全国視察の旅を続ける(ひょっとすると南部鉄器の里を視察に行ったのかもしれません)
その後、大坂鉄座が廃止されたのに重仲が戻らないので、業を煮やした息子が重仲を迎えに行く。
ふたりが帰郷後、温存した財力と重仲の鉄山経営の知識を得た下原一族は、ふたたび製鉄を開始した。
私としては、真実をゆがめる気持ちは毛頭ありませんが、没後200年を迎えて、重仲の名誉回復を求める気持ちと新たに見つかったいくつかの証拠から、今までの考え方は少し違うのではないかと思う次第です。