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2021年10月

都合山、幻の鉄穴探し大作戦!

それは一枚の絵から始まりました。
s近藤家文書2247(都合谷鉄穴)1


近藤家に残る古文書です。
『字都合谷鉄穴』の文字が見えます。
これは都合谷に砂鉄採取場があったことを示しています。
今まで、都合谷に砂鉄採取場、いわゆる鉄穴場があったとは聞いたことがありません。

そこで、現地踏査をして場所を確認しようというプロジェクトが始動しました。

早速、角田先生のご指導の下、たたら顕彰会のスタッフが招集されました。
もちろん遺跡を好物とする季節君も参加。
5人で山登りをすることになりました。

まず麓で地図の確認。角田先生がおおまかな位置の予想をされます。
そして、斜面をよじ登ります。
転んだら下まで落ちてしまいそうな急斜面です。
みんな腰には熊よけの鈴をつけて手袋に長靴。帽子は必需品でしょう。
つい先日も近くでクマが目撃されているので、インディー氏は音響ピストルまで持参して、パンパン鳴らしていました。

山の尾根では水平な小道が続いています。
不思議なほど水平です。
実はここがすでに、井出(水路)なのでした。
すいろ

よく見ると、道の中央が窪んでいて水路の跡が見て取れます。
昔の人はよくもこんなところに水平な道を作ることができたものです。
その技術には大いに驚かされます。

たぶん、ここが鉄穴場に水を引き込む井出なのは間違いありません。
道が二股に分かれていて、その先には何があるか気になるところではありますが、全部を調べる時間的余裕もなく、こんどはもと来た道、逆方向に向かって歩いてみることにします。

しばらく歩くと、右に大きく落ち込んでいる谷がありました。
降りてみると、ここが切端のようです。
山を崩して水路で砂を流したのです。
きりは

周辺には邪魔になった石を取り除いた跡もありました。撥石というそうです。

はねいし

その先は、砂を崩して落としてゆく『走り』になっていました。
はしり

こんな切り崩しがあちこちにあるのかもしれません。
この先はどこに続いているのでしょう?
きっと、下には選鉱場があるに違いありません。

ここも保留にしておいて、尾根に戻って都合山方向に進みます。
すると、急角度に道が谷に向かって落ち始めます。
ここが最終の切端でしょうか。
草につかまり、2人ほど滑落するのを見て見ぬふりをします。
途中から水が流れてきて、ぬかるむ中を季節君も一生懸命写真を撮りながら降りました。

途中でカメラのバッテリー切れになるカメラマン一名。
きっとまたどこかで再開しようねと言いおいて、崖のような斜面を下ります。

息も切れそうな強行軍で、何とか平地にたどり着き、振り返るとこの光景。
taki

水が流れていたら、立派な滝だったのでしょう。

そして、この下は平地になっています。
みんな無事に集合することができました。

この平地は、選鉱場の可能性がありますが、私たちにはその痕跡を見つけることはできませんでした。

平地に沿って都合谷川が流れ、対岸には再結合滓がびっちりと付いています。
さいけつごう

そして対岸に渡ると、たたら街道。
この道をたどると間もなく都合山の遺跡に到達します。
昔の人も荷物を背負ってこの道を歩いたのでしょう。
街道


こうした私たちの冒険は無事終わりを告げたのでした。
季節君が『やれやれ、もう一歩も進めないや (+_+) 』と言うと、角田先生は
「じつは午前中にも、下調べにひとりで同じルートを歩いておきましたし、これからは下りなので楽なもんですよ」
としれっとしておっしゃいます。
いったいこの先生の体力はどれほどあるのでしょうか。


ちなみに、次の『都合谷鉄穴流しの探索探検』は12月4日に行われます。
今日は掲載しきれなかった見どころも、各所にあります。

たぶん、保険料とお茶代程度の参加費で、10名程度の一般募集がされます。
皆さんご参加ください。




ふいご祭り開催

令和3年10月24日。
晴天に恵まれ、ふいご祭りを開催することができました。

その昔、たたら場では交代制でたたらが行われました。
3日、あるいは4日がかりでたたらをすると、あくる日からは次のチームに交代します。
しかし、出来上がった鉄塊を砕いて鍛錬し、鉄の延べ棒にする大鍛冶にはお休みがありません。
次々と出来上がってくる鉄塊を大急ぎで製品にしなくてはならないのです。

そこで、年に一度くらいは大鍛冶にもお休みをあげようということになり、大鍛冶をお休みして御馳走をいただく日。すなわちふいご祭りができたのだそうです。

日野町では、たたらで栄えたことを思い出すイベントとしてふいご祭りを行っています。

朝早くからミニたたらの炉の建設が始まります。
少しの狂いもあってはならないので、村下さん(工場長のことをムラゲと呼ぶ)も慎重になります。
空気がピンと張りつめていました。
準備


傍らでは鍛冶体験工房も開かれ、ペーパーナイフの製作が行われていました。
鍛冶体験

そして、日野町のゆるキャラ『しいたん』の登場です。
テレビで見るより実物はずいぶんでかくてびっくりしました。
しいたん


広島県立大学の野原名誉教授もおいでになっていました。
伯耆国たたら顕彰会設立当時からお世話になっている大先生です。
先生は、お持ちになっていたたたら関係の蔵書も大量に寄付してくださったりしています。

投入

そして砂鉄の投入体験。
50人ばかりが体験をさせていただきました。

2時間ほどすると、砂鉄に含まれていた不純物が炉の中にたまります。
これを抜いてやらなくてはなりません。
いわゆる『ノロだし』というやつです。

砂鉄の成分の半分くらいはケイ素です。
このケイ素をうまく溶かして、鉄成分と分離させるところがたたらのキモになります。
そのケイ素が溶けて溜まったところに、炉の粘土(これもケイ素)が溶けだして増量します。
炉の底を抜いてやると、これらが一気に流れ出すという仕組み。

のろ


真っ赤に溶けた溶岩流が流れ出しますが、これが鉄ではないところにご注意。
これが冷えるといわゆる『かなくそ』というやつになります。

火入れをしてから7時間。
炉を解体するときがやってきました。
洋鉄では、鉄も高温で溶かして溶鉱炉から流し出します。
いわゆる銑鉄ですが、たたらでは一回一回炉を壊して中の鉄塊を取り出すのです。

解体


鉄塊は水をかけても長い間水蒸気を上げ続けていましたが、ようやく触れるようになりました。
秤に乗せてみると、6.7Kgです。
計量

砂鉄を15Kg使い、その中の半分が不純物だとすると、7.5Kgが鉄成分だと仮定されます。
そのうち6.7Kgを鉄塊にして残せたのなら大成功でしょう。


平成3年ふいご祭り

毎年恒例のふいご祭りが開催されます。

砂鉄から和鉄を取り出すという技術を伝承するため。
教育的見地。
にぎやかし。
物見草。
その他なんやかんや。

を目的として、開催されます。

ふいご祭りというのは、もともとたたら場で休むことのできない鍛冶職人たちに、休養を与えるためにささやかに行われた行事です。
それを地域の活性化に役立てることはできないかと、イベントとして復活させました。

開催場所 鳥取県日野町役場前
日時 令和3年10月24日

8:50に火入れをして、その後、砂鉄投入体験(無料)
12:00頃から順次ノロだし。(溶けた不純物や銑鉄が真っ赤になって流れ出します)
鍛冶体験(有料)
などをして、14時ころに鉄を取り出します。
雨天決行ですので皆さんおいでください。

fuigo

才之原タタラ見学会

以前書いた才之原タタラの側面発掘が終わったので、見学会が開かれました。
このところ、日野町ではたたらの学術的な要素についても注目され、取り上げられるようになっています。

今回も、5回に分けてバスで現地まで送ってくれます。
私は午後の部に参加しました。
10人ほどの人がバスに同乗されました。
今までの見学会に比べて、少しづつ参加者が増えているのが、たたらに対する関心の高さを感じさせます。
午前の部は米子からの人が多かったそうです。

前回見せていただいた時は上からの発掘で、よくある視点でしたが、それでも才之原は複数のたたら跡が重なっていてわかりにくかったです。
今回は側面からで、なおわかりにくくなっていますのでご期待ください。
というのも、よくある地下構造の輪切りではなく、道路に沿って縦に切り取った部分が露出しているのでわかりにくいのです。
なるたけわかりやすいように今回も画像を使って説明します。
上空から見た才之原たたらは、このようになっています。
赤い線が切り取り線です。
見取り図才之原
この断面は写真で見るとこうなります。

zenkei

古い方は300年前を想定しておられます。
ここからは陶器が出ているので、それが手掛かりになっています。

新しい方は200年前。
日野町文化審議委員さんから指摘していただいた黒坂の古文書に「藪津付近の冬の雪かきを緒方のたたら場にいる人夫に頼んだ」というのがあるそうです。

このたたらの場所が藪津なので、大鉄山師「緒方家」がやっていたたたら場であろうと想定し、200年前と推測しています。

IMG_1346
古い大舟の地下には坊主石があり、その下にも大量の石が埋められていました。

sikiisi migi

その上に鉄滓や粘土で地層を作って防湿しています。
大舟はかなり深いところから炭を敷き詰めています。

大舟の後ろに柱らしき跡があります(ここからは見えません)。

近世の高殿とは少し柱の位置が違います。


続いて新しいほうの地下構造を拡大してみます。
oobunekobune hidari


(左から)小舟の内壁面があり、空洞部分があって、大舟との境の壁面(石垣状)。その右に大舟の内面が露出した状態です。
大舟の壁面には炭が焼しめられていた跡が見えます。

この新しい大舟の地下も鉄滓と粘土で層を作ってありますが、その上に花崗岩の粒と粘土を突き固めた層があり蓋をした格好になっています。

大舟は古い方に比べてみると、かなり浅くなっているのがわかります。

つまり、古いものは地下の層が浅くて大舟を深くしている。
新しいほうは、地下層を厚くして、大舟を浅くしている。
構造が違っています。



ふたたび右の古いほうの拡大図です。
hondokodoi migi

本床土居というのは、本床のまわりに作ってあった敷居のことです。
それがしっかりとコンクリートのように突き固められて残っていました。

小舟の天井部分も残っていて、破片を見せていただきましたが、やはり粘土と花崗岩粒を混ぜてしっかりと固めてあるものでした。

こうして詳しく説明しても、なかなかわかりづらいだろうと思います。
説明しようとする私にも分かりづらいんですから。

なお、この遺跡の一部分を樹脂で固めて残してあります。
この遺跡は道路拡張のため撤去されなくなりますが、一部は保存されることになりました。
今後日野町で公開展示する予定です。


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