アーカイブ

2021年09月

古文書の保存整理作業をしました。

 

たたらについて勉強するようになって、古文書と触れ合う機会が増えました。

そこには、いったい何が書かれているのか、気になります。

ぜひ知りたい、絶対知りたい。

しかし、あのミミズの這ったようなものがなぜ読めるのかがわかりません。

 

これは、いわゆる、虎穴に入らずんば虎子を得ず。

というやつだなと思いました。

(ちょっと違うかもしれない)

多少は無理をしないと望みをかなえることはできません。

そこで、思い切って古文書教室に通うことにしたのです。

 

あれから3年。

そう、石の上にも3年です。

 

少しずつではありますが、ミミズの気持ちが読めるようになってきました。

 

今は、福田家文書というのを読んでいます。

鳥取県日野郡を支配した、福田家という家の伝承を記したものです。

きちんと祐筆が書いているので、文字もきちんと崩してあります。

膨大な文書ですが、いつかはこの文書を全文、現代語訳してやろうかと思っています。

 

話は変わりますが、日野町では昔から伝わる公文書が保存されています。

日野町に初めての学芸員が採用されたこと、少しずつ古文書の扱える人が育ってきたこと。

などを勘案し、古文書をきちんと整理しようという話になりました。

 

もちろん私も、その末席で参加しています。

まずは、掃除をしてから、表題を解読し、リストを作ります。

 

今日は表題の解読作業をしました。

 

私が担当したのは享保14年の土地租税について書かれたものです。

どうやらこの年は、水害が発生したようで、その文書がありました。

荒地、新開地について、井出川について、租税免除について記載されています。

内海さんという役人さんから、土地の庄屋、百姓に対して、年貢を減免することなどが巻紙に書かれていました。

IMGP0076

 

武士が書いたものは読みやすいのですが、村役から庄屋に差し出された報告書は、崩し方がいい加減で、とても私には読めません。

先生方の手を煩わせながら、四苦八苦しておりました。

当時の人はこれを読んでいたのでしょうねえ。

今日は、やっと15冊ほど整理できたでしょうか。

それでも、5人でやれば75冊を整理できたことになります。

整理しなければならない古文書は、あちこちの部屋に分散して山のように積み上げてあるとのこと。

気の長い作業になりそうです。

そのうちに、たたらに関する文書もきっと出てくるだろうと思います。

下原重仲の「鉄山要口訳」の時のように、とんでもないものが出てくるかもしれません。

 

福長、才之原遺跡の続報

福長下モノ原たたらについてちょっと考えてみました。
これは素人考えなのであまりあてにしないでください。
この遺跡では、小舟がないらしい。
大舟というほどの大掛かりな保温設備もないらしい。
おったて柱など、高殿の存在をうかがわせる柱跡も見つかっていない。

ということは、カーボンベットによる簡単な保温構造であるらしい。

今までの勉強からして、鎌倉時代のたたらに似ているのではないかと思います。
少なくとも近世の遺跡にあるような設備はなさそうです。

したがって、この遺跡は、かなり古いのではないかということになります。
これから炭素年代測定をするようですので、要注目です。
(その後の調査で、炉の地下に炭を詰めた大舟構造が見つかり、さらに小舟部分には溝が掘られていたことがわかりました。これで、もう少し新しいものだと推測されるようになっています)

それから、黒坂下にある才之原たたらの続報です。
当初、3つの製鉄炉があるとの見解でしたが、地価を掘り下げてみると、保温構造は2か所にしかないらしいです。
すなわち、表面には壊された小舟上部が散乱していたために、3か所を予想しましたが、実は2か所であったらしいのです。
そして、昭和に見つかり、根雨民俗資料館に置かれている坊主石は、才之原ではもう見つからないようです。
敷石部分は見つかっています。
才之原

坊主石は、おそらく昭和の道路工事の際に切り取られてしまった部分にあったのでしょう。
完全な形で地下構造が残っていないとしたら、とても残念です。

福長下モノ原遺跡見学会

 

菅沢ダムの下流に福長というところがあり、道路工事が計画されています。

そこにたたらの遺跡があることから、今回発掘調査がおこなわれました。

一昔前まではたたらの遺跡は邪魔になるばかりで、調査されることなく破壊されていました。

しかし、近年になって、たたら場だって立派な遺跡だから調査しましょうという空気になってきました。

ありがたいことです。

鳥取県西部は、長年たたら遺跡の空白地帯と言われてきましたが、遺跡がないのではなく調査が行われてこなかっただけなのです。

確かにお金も時間もかかるのですが、一度壊してしまうと後戻りはできないので、調査資料だけでも残しておくべきだとおもいます。

 

行きがけの黒坂では、才之原遺跡の発掘現場にも突き当たりました。

以前調査報告会の模様を書いたことがありますが、現在も道路を片側通行にして調査が続いています。

通りすがりの通行人は、事故をしないように気を配りながらも、ちらちらと横眼でよく見ると、赤茶けた粘土の壁面などもみえるでしょう。

 

さて、根雨から20分ほど車を走らせると、福長遺跡の現場に到着です。

現場管理は徹底していて、道路沿いに安全管理者がたくさんおられ、コロナ対策もされていて頭が下がります。

6回行われる見学会の第2回目ということで、7人ばかりの見学者の皆さんが一段高くなった休憩所で待機しておられました。大半の人は午前の部で見学されたのでしょう。

現場を見下ろすと、中央に大きな丸い石で囲われた、炉と思われる部分が見えます。

IMG_1309

担当者の方に説明をしていただくと、中世のたたらだという事でした。

(鎌倉から室町までね)

鳥取県内で発掘調査された中世の製鉄関連遺跡は10か所あり、そのうちで製鉄炉は6か所みつかっています。ほかは鍛冶炉です。
(たたら顕彰会では、まだ未発掘の遺跡を550か所ほど見つけています)

さらに、工事で掘ってたら、遺跡のようだとかいうのではなく、頭からしっぽまで本格的に学術調査を行ったのは今回が初めてらしいです。

この遺跡、表面は田圃になっていたために削りとられていて、地表部分は残っていませんでした。

発掘現場では丸い石が半円状に並べられています。


IMG_1314

これはいったいなんでしょう。

見たことがありません。

新手のストーンヘンジでしょうか。

それとも、ミステリーサークルか。

おそらく、風を送るためのふいごを置いていた、ふいご座の変形したものだろうとのお話です。

製鉄炉が山から谷への中腹にあり、斜面と並行していることから、土が下流へ流出するのを防止する意味があって囲んだのではないかとのお話でした。

 


 

さらにトレンチ(試掘溝)にはいく層にも重ねられた粘土が見えます。

IMG_1320

ひょっとしたらこの下にも、古いたたら場が埋没している可能性も指摘されました。

たたら場にはありがちなことです。

 

そして鉄滓を捨てたところが数箇所。

ひょっとしたら鍛冶場(鉄を鍛えるところ)が疑われるところもありました。

真っ赤に焼けた跡のある石も見つかっています。

でも、地表が削られているのではっきりした鍛冶炉の地形が出てきません。

IMG_1318

 

いつのもように炉より斜面下側に向けて鉄滓が捨てられているので、斜面上方向に砂鉄置き場や炭置き場があったのでしょうね。

 

さらに気になるのが上屋の存在ですが、この遺跡でも地表が削られていたので、柱跡などが見つからず、どのような建物があったのかは分からずじまいでした。

でも、大きな柱跡が、予想されるところから出ていないことを考えると、高殿の形態はなかったとも考えられるのではないかと思います。(季節君にしては、ずいぶん慎重な言い回し)

 

しかし、この時代のこの地方のたたら遺跡であったこと。ふいご座と思われる石の配置が特殊であったこと、など今後の物差しになりそうな調査結果が出ています。

 

なお、私が放った草(隠密とも読む)の報告によると、この遺跡のすぐ上にもたたら場が眠っている可能性があるそうです。今後は調査主体を替えて調査を続けるということでした。

この遺跡のすぐ上方向と言うと……

私たちが休憩所として踏みにじっていた平地ではないですか。

o(゚o゚;)o 絶句……

そういうことは先に言ってほしいですね。

 

大変失礼を致しました。

今後の調査頑張ってください。

 

令和のふいご祭り

今年もこの時期がやってまいりました。

しかし、コロナの影響もあり、不安材料のあるところです。

食品の提供などは取りやめ、ミニたたらと鍛冶屋体験をします。
たたらでできた鉄の量を推測するゲームも景品付きで実施?できるかな。
これはスポンサー次第となります。

それから、今年はたたらの遺跡発掘が各地で行われているので、その報告会を開けないかと検討することになりました。

 

令和のふいご祭りの開催日は10月24日

開催場所は日野町役場前。

開催時間は9時からということで大まかに決まりました。

 

これから詳しいところは詰めてゆくことになりますが、とりあえずご一報いたします。

皆さん、10月24日はスケジュールをあけておいてください。

このページのトップヘ

見出し画像
×