金屋子神由来記を読む。
下原重仲といえば鉄山必要記事が有名です。
そして、日野町の旧家から、下原重仲直筆の鉄山要口訳という日本最古の製鉄技術解説書が見つかったことも、以前書きました。
その家から、川上森重という人の「金屋子神由来記」という古文書も見つかっています。
古代製鉄の伝承を伝えるお話は、大きく2つが知られています。
ひとつは、千種から奥出雲に鉄づくりを伝承したとするおはなし。これは島根県西比田の金屋子神社にも伝わるものです。
そしてもうひとつは、八岐大蛇族が中国山地で鉄づくりをしていたとする説。これを出雲の豪族である素戔嗚が攻め、鉄づくりを伝承したと考えます。つまり八岐大蛇伝説です。
この説は山田新一朗先生、相良英輔先生が論文を書いておられます。
鉄づくりは一か所から伝わったと限定する必要もないので、複数のルートがあってもいいのでしょう。
日野町で見つかった金屋子神由来記は、黒坂の川上森重という人物が明治十六年に書き残しています。
当て字が多く、天照やいろいろな神様の名が出てくるので読みにくいったらありゃしません。
あちこちを調べていたら、影山猛先生がこの金屋子神由来記を活字にしておられるのを見つけました。
これでわかりにくいながらも、何とか理解を深めることのできた季節君です。
「そもそも、この世が始まった頃、国常立命から伊邪那岐、伊邪那美命まで7代。そして天照大神からウカヤフキアワセノミコトまで地の神5代のころのことです。
神武天皇が帝として初めてのめでたき代となりました。
神代の昔には、人間はまだ生まれていません。
クニタチトコノミコトより4代目、ウイチニノミコトの代にイズモヒチニノミコトから男神、女神と現れましたが、6代目のオモダルノミコトまでは結婚はしていません。
7代目のイザナギ、イザナミノミコトは淡路の国へ天から降りてこられて、ミトノマクハより混ざり合い4人の御子をお産みになりました。
日の神、月の神、ヒルコ、素戔嗚尊です。
日の神は天照大神、月の神は月読命多賀峰明神、ヒルコは恵比寿三郎西宮大明神、素戔嗚尊は出雲国大明神です。
それよりのち、人間が生まれてきました。けれども、気魂がまちまちだったので仮身や三宝をわきまえていませんでした。寒さや病気をしのぐすべも知りません。食べ物は自然にあるものを食べるのみで、蓄えも持たない。水中に遊ぶ魚のようなものでした。
このとき、金山姫宮という人が大日如来の化身として人々の救済のためにこの世に顕れましたが、世の中は乱れていました。人々はまだ未熟なので時期尚早なのだろうと、須弥山にこもりむなしい月日を過ごされました。
さて、伊邪那岐、伊邪那美命はなんとかしてお屋敷を作りたく思われたけれど、釘がなくては思うようになりません。いろいろ工夫して神通力をもって世の中を見渡したら、須弥山の傍らに大楚山、小楚山という山があります。そのうえに四千里四方の岩がありました。その岩の上に三十三の姫宮九十九社がいらっしゃいます。
三の王とはこのことです。伊邪那岐、伊邪那美命がお会いして、御殿づくりを相談すると、姫宮がおっしゃるには鉄と言うものなしでは釘鉄の用意ができない。私は諸々のかねをつかさどっています。作り出してあげよう、と唐天竺の気根山に行かれました。この山を穿鑿なさったら金銀銅鉄など、諸々のかねの種がありました。
これを取り出して段取りしようと、せいたい山というところで、諸々のかねを吹きだして釘鉄物の用意をして、御神にお渡しになりました。
伊邪那岐、伊邪那美命がお取りになり、左の手に槌を持ちまず一番の釘を、よきかなよきかなと打ち給い、二番目の釘をかへりふ満足とお打ちになる。三番目の釘を諸願成就と打ち納め、宮造りを成就されたので、人々も思い思いに家を作って雨露をしのぐようになしました。桁上げのはじめ、家造りのはじめはこれです。
金山姫の宮、伊邪那美、伊邪那岐命は四人の子供たちに譲りものをされました。
まず国を天照大神に譲られました。
山を月読命に譲られました。
海を恵比寿三郎殿に譲られました。
そして二振りの剣を須佐王命に譲られました。」
ここまでで3ページ。あと4ページ続きます。
(;^_^A
なんとなく雰囲気だけでも感じていただけたと思います。
いまでも奥日野のどこからどんなものが出てくるかわからないし、その価値にいつ人々が気付くのかもわかりません。
あるいは気付かれずにひっそりと失われてしまう可能性もあります。
これからも目が離せないなと思いながら、秘かに古文書の勉強を続ける季節君でした。