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2018年07月

山伏塚

大原安綱を調べていて、先日は阿毘縁に行きました。

大原山の鍛冶屋跡に行くと、カナクソや石柱があって神秘的な森であったことは先日のブログに書きました。
そのときには、山伏塚までたどり着けなかったんですが、季節君が師匠と仰ぐ方から写真を送っていただきました。
聞いて驚け、見て驚け!
これぞ、大原山伏塚です。
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なんだか、気はづかしいのですがアップ画像です。
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マラの像は古来から信仰の対象でした。
麻羅は鍛冶の神だとされます。
火床は女性の象徴だとされますし、槌は男性の象徴とされるようです。

あまり大きな声では言えないような神様ですが、こういった小さな神様が(それでも季節君のよりは大きい)昔から祀られていたというのが、案外本物なのかもしれません。

刀鍛冶さんが、庭の隅に祀ってあったこの神様を毎朝拝んでいたのでしょうか。

皆さんはどう思われたのでしょう。
ちなみに、撮影者も道に迷ったほどの山奥です。
地名は鳥取県(伯耆の国日野郡)日南町阿毘縁大原山伏塚というところです。



伯耆安綱の展示会

ただいま米子美術館では安綱展を開催中です。

季節君も、たたらや刀剣に詳しい先輩に連れて行っていただきました。自前ガイド付きの豪華な視察です。米子がいな祭りのにぎわいを交わしながら米子市の駐車場に入ります。
安綱展示


きょうは東京国立博物館の主任学芸員さんの講演があるので多くの人がお集まりのようです。

わたしもお見かけしたことのある文化関係の方が、多くおいででした。

少し時間があったので、刀剣展示室に行って実物の古伯耆を見せていただきましたが、ここは写真撮影不可となっていますので、今日は実物の写真は掲載できません。

米子市図書館に移動して講演会場に入ると、150人くらいでしょうか、会場は満員になっています。

知り合いの事務局のかたに席を与えていただきましたが、流石に刀剣人気、安綱人気を感じます。私の隣の人もノートを広げてやる気満々。季節君も鞄からノートをおもむろに取り出し、俺だってやる時はやるんだけんねと気合を入れました。

誰かが真剣を持って飛び出してくるのではないかと思うくらいの殺気が漂う中、たんたんと画像を交えた安綱の太刀の分析が続きます。

真守が安綱の次男で、嫡男は有綱だろうとの解釈、う~んと季節君はうなってしまいました。根拠となった古文書を探して読んでみようと思います。

それから、展示中の無銘古伯耆は有綱の物だと考えるとの発言。そして細かな分析。息をのむような専門的な見解でした。

季節君なんかは百歩下がって「まいりました」と膝をつきたい気持ちです。

 

最後に安綱は数代あったかもしれないとの論説に対し

「平安期に襲名の習慣はなかったと思う。だから安綱が複数いたというのは頷き難い。確かに銘安綱の作風はいろいろな物があるが、ひとりの人が作風を工夫していった可能性もあり、どちらの意見も決定的な根拠はない。」

というようなご意見でありました。

 

その後ももう一度展示会場に戻り、抜刀術の先生などにもお会いして、いろいろな説明を伺いました。

刀の歴史も奥が深いのですが、その鑑賞の仕方も奥が深く、季節君などは右往左往するばかりであります。

 


大山開山1300年祭り実行委員会では
大山山麓の謎解き宝さがし
というイベントを開催中です。

http://nazo.daisen1300.org/

米子市、境港市、倉吉市、大山、などで開催されていますが、日野町でも実施中でございます。

このところ、たたらの楽校にもヒントを求めてお客様がおいでになっています。
皆さまも、参加されてみてはいかがでしょうか。

結構豪華な景品が、これでもかと貰えるようです。
私も日野町の宝の隠し場所は想像つきますので参加しちゃうかななんて思います。

願いが叶う馬というのは絵馬?
龍の名のつく…ていうのは竜王滝でしょうか。
これは、あたしの勝手な予想でございます。

たたらの取材依頼がありました。

お相手は foreign press center というところです。
要するに、外国の記者さんたちが取材においでになるという事のようです。

スイス、ドイツ、韓国、デンマーク、ベトナム、バングラデシュ、香港、日本の12人からなる取材記者の皆様と通訳、随行員の方々です。
メディアも新聞、雑誌、TV,ラヂオ、インターネット、狼煙、太鼓、モールス信号、伝書鳩……
色々です。

昨今の日本刀ブームもあり、米子市美術館の安綱展示をご覧になって、たたらに関する施設にもおいでになるというスケジュールでした。

いよいよ、季節くんも国際デビューすることになりそうです。

ヤッルゥ!o(*>▽<*)o


詳しくは、取材が終わってから報告いたします。

トークセッションの中、阿毘縁に付いて思うことを問われ、季節君は木下家と谷中山遺跡の印象を話しました。

しかし、谷中山は笠木であって阿毘縁ではなく、いらぬ恥をかいてしまいました。

('◇')ゞ


木下家が最初に創業したたたら場はどこだったのですかと尋ねたところ、木下家もいろいろあるからよくわからないとのことでした。


じつは「 山分け文書 」という古文書があり、
尼子氏の小林右近から領地を譲り受け
慶長四年(1599年)弐月弐拾六日に木下孫四郎と法橋太郎右衛門、法橋又右衛門の三人で山分けをして操業を開始しています。

 

堤ケ谷境出口そね切頭は雲州境切左の頭は小鉄峠くるひ山のぎんば切是壱分

水槇山川の渡りの小そね切より二松峠の右そね
云々が孫四郎(のちの初代彦兵衛)の領地となっているのですが、季節君は土地勘がないので、この文書がどこを差すのか皆目見当がつかないのです。

今回の座談会で、地元でもはっきりとは伝わっていないのかなあという感じがしました。
それでも有名な木下家の事ですから、調べればどこかの文献で見つかるのでしょう。

 


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