アーカイブ

2018年01月

今朝の新聞を見て季節君は驚いちゃいましたね。

なんと、春日大社で古伯耆(鳥取県西部で平安期に作られたもの)の刀剣が発見されたそうではないですか。

ネット上でもあちこちでニュースになっています。
古伯耆と言えばすぐに安綱!と言いたいところですが、それをぐっとこらえて、真実のみを伝えようとしているところがこのニュースの偉いところ。
反りや鎬が入った草創期のものとみられ、82.4センチ。現存する古伯耆の中でもこれだけ長いものは珍しい、と書かれています。

童子切が80.3センチ

重要文化財の北野天満宮 銘安綱(鬼切と伝わる) は二尺七寸九分二毛(85センチ)
太刀は俗に二尺八寸と呼ばれますので、85センチが常寸でしょうか。

すると今回の太刀は驚くほど長いわけでもなさそうです。

ただし、江戸末期には接近戦を考え、茎を切って短くするものが多かったそうです。すると今回の太刀はまったく手付かずの姿(生ぶ)だというのでそれも貴重ですね。
腰ぞりが強く切っ先に向かって直線になっているのも、古伯耆の特徴をよく表していると言います。
とすれば、ほぼ大原鍛冶の作でしょう。(わしが勝手に鑑定するな)
<(_ _)>

惜しくは、銘がないこと。真守とか貞綱とか安家とかいろんな人の可能性もあります。
どなたの作なんでしょう。また、どこでどうやって春日大社に奉納されたのでしょう。

髭切は伊勢神宮に一度奉納されていますし、膝丸は熊野大社に奉納されています。鬼切は北野大社、そして大神山神社にも銘安綱。
春日大社には遠くて行けませんが、大神山神社の銘安綱は7~8月展示があるそうですので、見に行こうと思います。この展示会にはほかにも有名な刀剣が展示されるのですが、内容はまだ公開できません。
それまでに、季節君も刀剣の見方を勉強しておかなくては……。

(その後の調査で、刃紋などから、春日大社の太刀は安綱の可能性が高いそうです)

日野山櫻という郷土資料を地元から提供していただき、現代語訳をしています。旧日野郡について歴史がいろいろと書かれているのですが、たたらのことも結構書かれているのです。

そして大原の地名に突き当たりました。

大原安綱は伯耆の住人にして太郎太夫と称し平城天皇の大同年中刀鍛冶の名匠即日本刀の始祖とも仰がれ名声天下に顕はれ其子真守も亦刀剣作の名工なり安綱父子の住居せし大原は日野郡内次に記する六箇所の内なるべし

とはじまる一文をごく短く要約すると、

印賀村、阿毘縁村、笠木、花口、上菅、吉壽村(伯耆町八郷)を安綱、または真守の住居、あるいは移転先としています。なお、それぞれの大原、元大原の地名は地名が先なのか大原氏が居住したから大原という地名になったのか詳細は不明としています。


他にもいろいろと郷土資料の提供を受け、安綱関連の部分を抜き出しているのですが、うまくまとまるかどうかはまったくわかりません。予断を許さない状況なのです。
(@_@)


というのも、古文書によって内容がぶれているからであります。
平家物語、太平記、平治物語、源平盛衰記、日野郡誌、伯耆民談記、伯耆誌、そのほか、いくらでも出てきてしまって収拾がつかなくなりつつあります。
しかし、地元の人の多くはこの歴史を知らないのですよね。

もったいないお化けが出てきそうです。

~~~(m-_-)m

総務大臣表彰祝賀会

総務大臣に表彰していただいて、しばらくの時間が過ぎましたが、お休みの日を利用してその祝賀会が開かれました。

IMGP0033

いろいろと偉い人もお見えになりましたが、もっぱら話は今後の活動方針についてであります。
地元新聞社主催の表彰式に呼ばれるかもしれません。
また、大山開山1300年祭のお手伝いもする予定です。これは10月19,20日あたりで奥日野の見学会や米子でのたたらと刀剣のフォーラムになるのかなと思っています。
もっと、近くで言いますと、3月11日に日南町文化ホールでたたらの講演会を行います。
これは、日南町のたたらについての集中的題材大盤振る舞いこれでもか的な講演会になります。
よくわからんが…

日南町でのたたらの歴史について講演をお願いする予定です。

それはさておき、伯耆の古鍛冶についてまだまだ知名度が低いぞと、うなりながら季節君はビールを飲んでいました。
おとなりの師匠も、そうだそうだとおっしゃってましたので、大原鍛冶について話が盛り上がりました。
師匠はもうすぐ日刀保が始められるたたら操業を応援に行こうかななどとおっしゃってましたが、今年は雪が少ないので峠も越えやすいでしょう。(今のところ)
私はもう少し、大原鍛冶について冬の間に勉強しようと思います。


総務大臣表彰

 

昨年末に伯耆国たたら顕彰会に対して総務大臣表彰がありました。


q(≧▽≦*)(*≧▽≦)p。・:*:・゚★,。・:*:・゚オメデトー♪ 


地方自治法施行70周年記念表彰というのだそうです。

総務大臣


まあ、そこそこ長いこと、みんなで頑張ってきたということで褒めてもらったのであろうと思っています。

これも多くの皆さんの応援があってのこと。
さらにいうなら、行政からの後押しも強力にありました。

それでは、もう少し頑張ってみようかと、単純な季節君は思うのでありました。

今日は、新年早々、その報告に鳥取県日野振興センターと日野町役場に行ってきたのであります。

総務大臣2
総務大臣3


今年は、伯耆の刀鍛冶について観光パンフレットを出したいなと思うのですが、大山開山1300年祭にちなんで、たたらについても大規模な集会が出来るかもしれません。

いろいろな事業のことを考えると今年も忙しくなりそうな気配です。

どうぞ皆様のお力添えをお願いいたします。

どこかの刀剣書で、『古文書に、童子切は伯耆の鋼が使われたと書かれている』となっているのを目にしました。そのときはスルーしてしまったのですが、この古文書とは鉄山秘書を指すと思われます。

ちょっと私が作った鉄山秘書の覚書きを読み返してみました。

砂鉄については、「俣野村と印賀村、宍粟には刄金押しによいものがある。ほかには見当たらない」と書かれています。
また、「踏み鞴から天秤ふいごになって刄金が違ってしまった。」と書かれています。

俣野刄金は質が良く、童子切という名刀も俣野刄金を使ったものだと思われるーとも書いています。

鉄山秘書がかかれたのが1785年なので、大原一門から500年くらいたっています。
下原自身が俣野刄金を作っていたので、それくらいの自負はあったんでしょうが、大原一門が俣野刄金を使ったという確証はありません。
しかし、それでも印賀刄金のことを記載しているので、昔から印賀の鉄は優秀だったことが知れ渡っていたのでしょう。
むしろ、印賀刄金や、童子切安綱を俣野刄金と列記することによって、俣野刄金の優秀さをアピールしたかったとも考えることができます。
とすると、やはり通説通り印賀鋼が大原一門の鋼の可能性が高いと思います。
ちなみに、印賀鋼はその成分が特筆するほど優秀で、明治期の海軍が全国の鋼を調査した末に印賀鋼を指名して低燐鉄を作らせたというほどの経歴を持ちます。(この低燐鉄の製造は明治、大正期には出雲御三家も製造しておられます。)

このページのトップヘ

見出し画像
×