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2017年12月

このところ、刀剣迷路に迷い込んでいる季節君でございます。
今日は、抜丸またの名を木枯について。

平治物語によれば
平頼盛が兜に熊手を引っかけられ、引き倒されそうになりますが、刀で熊出を切り落とします。その刀が名刀抜丸であったので、よく切れるのも納得だと書いています。
平家の宝刀 抜丸は伯耆の刀鍛冶 真守が作った刀であると書かれています。

しかしながら、なぜその名刀が国宝になっていないのか。
抜丸は、昔、盗難にあっていまだに行方不明らしいです。もし、見つかったら大発見ですね。

見かけた方は季節君にご一報ください。

 

ここで注意しなければならないのは、抜丸はもとは木枯であったと長享銘尽に書いてあるんです。

木枯→小烏と書かれたものも見かけますが、木枯と小烏とは別物だと思います。
昔はコピー機がなくって書き写して行くしかなかったので、季節君のように目が疲れてしまった書き手が写し間違えたのかもしれません。

もうここまで来ると大変です。

小烏と呼ばれる刀剣や木枯と呼ばれる刀剣が入り乱れてしまいます。

 

話はガラッと変わります。

小烏の写真を見て驚きました。(天国作、皇室御物の方です)

両刃で反りのある刀なのです。

死角をなくすためか、刺突狙いなのかわかりませんが、恐ろしい刀です。

緋村剣心(るろうに剣心ね)の逆刃刀を思い出しました。アニメの世界ではなく本当に逆刃刀がありそうです。

 

それに小烏では小説に出てくる峰打ちができません。長谷川平蔵(鬼平)はどうするのでしょう。きっと困ります。

峰打ちと言うのは実在しないそうですし、逆に反った刀で構えると言うのはけっこう格好悪いです。

いらぬ心配をし、話が迷走しましたが、言いたいのは、伯耆の名刀は童子切りだけではないぞと言うことでありました。






日本最古の刀剣書 である観智院本『銘尽』(めいずくし)を見ています。(国会図書館HPなどで見ることができます)

なかなか解読できないので、生意気に読んでいますと言わないところが季節君の奥ゆかしいところです。

国立国会図書館 コマ番号44ページ
伯耆鍛冶のところに『上一諷誦 ひけきりお作』(ひげきりをつくる)とあります。さらにその下には月山の名が見えます。
はたして、上一、諷誦、月山は伯耆の鍛冶であったのか。
じつは伯耆鍛冶の大原真国は奥州に行っていますし(鳥取県郷土誌に記載)、鉄山秘書を書いた下原重仲も奥州に行っています。すると、奥州の鍛冶が伯耆に来たこともあるのか。意外と、奥州と伯耆が技術提携のためのお付き合いをしていたりして。

さらに、ひけきりとあるのは平家物語に出てくる髭切と同じものなのか。
昔から、名刀を真似て作るというのは頻繁に行われていたそうなので、同じ名の刀があっても不思議でも何でもありません。

安綱の項目には『田村将軍 且八矢乃剣 作上手也』(たむらしょうぐん そはやのつるぎ つくりじょうずなり)と書かれています。じつは且八矢乃剣というところが読めなくって、ずいぶんと崩し字辞典を調べました。(笑)
坂上田村麻呂の佩刀にソハヤ丸があることからやっと読むことができました。
太平記の記述と一致しています。年代も田村麻呂と大同の時代(童子切が作られたとされる年号)は一致します。
ただ、ソハヤの剣と童子切は作風が一致しないと思われます。

さらに眞守のところには『安徳子 平家のぬけ丸作』と書かれていて、これは平治物語に書かれている通りです。

その下に書かれている『為吉』という名もちょっと気になりました。
安綱一門の系図にも載っていますし、現存する刀にも為吉の名はあります。たぶん1000万円くらいするのでしょうか。
それでも、安綱に比べれば、ゼロが少なくお安いです。

大原鍛冶の伝承の残る瑞仙寺です。

米子市日下というところにあり、前から行ってみたいと思っていたところです。

ずいぶん古いお寺みたいで古文書がたくさん残っているそうです。
大原鍛冶の末裔も、流れを引く鍛冶もこの辺りに居たという伝承があります。


行ってみたけれど、それらしきものは何もありませんでした。
烏帽子をかぶった人が歩いていたりとか、刀が落ちてたりとか、鍛冶道具が並べてあったりとか、鬼の首があったら怖いですね。

まあ、そのようなものがあれば、もっと有名になっているかな。


大原安綱に関する観光パンフレットを作ろうかという話もあり、具体化したらもう一度訪ねてみようかとは思っています。もちろん、日南町、日野町、伯耆町、倉吉の大原も訪れなくてはなりません。

クライマックスを一気に読み解きます。



為義は老後、友切と小烏を嫡男の義朝に譲った。そのとき保元の乱がおきる。
義朝は保元の乱に勝利し左馬頭になる。その後、義朝(小烏を持っていたと思う)とその子頼朝は(友切を帯びて)戦に挑んだが敗戦する。

m(_ _)m

義朝は八幡大菩薩の夢を見て友切という名は縁起が悪いと知り、刀の名を髭切に戻した。



義朝は討たれて小烏とともに都の平家のもとに送られてしまう。
頼朝は身を隠していたが、髭切を熱田神宮に隠し、頼朝自身は流罪となってしまう。

(。ノ_・。)ウッ・・

21年後に頼朝は熱田神宮の髭切を持ち出し、決起する。その時、義経も頼朝のもとにはせ参じる。
木曽義仲が都を攻め平家を追い落とすが、その木曽義仲を義経の軍勢が攻め滅ぼす(親戚同士の勢力争いです。)
湛増別当が源氏の世になったのを喜んで(湛増別当も源氏の縁者らしい)義経に膝丸、またの名を吠え丸という刀を与える。

義経はこれを受け取って『薄緑』と名付けた。この刀を受け取ってからというもの、義経にあちこちの軍勢が味方するようになったのも不思議である。
義経はその後、刀の法力で一の谷、屋島の合戦を勝利する。
義経は平氏が持ち出した三種の神器を持ち帰るが、宝剣は無くなっていた。宝剣とは天叢雲剣・天のはば切の剣である。天のはば切とは大蛇を切った剣である。
(天叢雲剣も奥日野、奥出雲の剣であることをお忘れなく)


義経は頼朝と仲が悪くなったのを気に病んで薄緑の刀を箱根権現に献上する。

その後、この薄緑(膝丸)は頼朝のもとに送られる。源氏重代の髭切、膝丸が長い間分かれていたけれど、最終的に頼朝のもとで一つになったことはめでたい事である。


(めでたいけれど、義経はこの時、死んでしまっているのです。ちょっと悲しい)

 というふうに平家物語はなっています。
私が言いたいのは、伯耆のたたら製鉄の成立年代はわかっていません。
しかし、こういった名刀の伝説があるということから、源満仲の時代にはすでに伯耆の刀は国内に知れ渡っていたという事です。それまでに鋼の製法が確立していて、その鋼を求めて刀鍛冶が土着していた。
つまり、源満仲の時代960年ころには遅くとも刀造りが完成期を迎えていたのですから、たたらの成立はそれよりずうーーーーー→っと古いぞということが言いたいのでありました。
伯耆国たたら顕彰会の調査チームは、ただ今奥日野で520か所以上のたたら関連遺跡を踏査して(文化庁補助の報告書で出版して)いますが、地形や由来、位置の確認に留まり年代測定をするだけの力はありません。
したがって、伯耆はいまもって、たたら調査の空白エリアとなっています。
公的な調査が待たれます。

剣の巻の季節君流現代訳が途中ですので、その後を暇に任せて要約してみました。


頼光から頼基に受け継がれた鬼丸、蜘蛛切を頼基は義朝に渡し『この刀は多田満仲から三代続いた刀だから大事にしなさい』と告げる。

(〃 ̄ー ̄〃)テレ

そして前九年の役が起こる。ここで勝利した義朝はこの刀を八幡太郎義家に継がせる。義家は後三年の役に出陣して勝利するが、敵を打ち取ったのは刀が優れていたからだ。義家はこの刀を四男の六条判官為義に譲る。その後、為義は数々の武勲を立てるがすべて刀の威力によるものである。

為義は熊野に詣でたときに教真別当を婿に迎えた。もともと為義が持っていた二つの剣は終夜吠えた。鬼丸吼えた音は獅子の音に似ていた。蜘蛛切が吠えたる音は蛇の泣くのに似ている。故に鬼丸を、「獅子の子」と改名し、蜘蛛切を「吼丸」とした。

o(*>▽<*)o 出たな吠え丸う~♪

こうしたときに源平が合戦をするものだから、教真別当は親不孝な婿だけれど、こういう時こそお力添えしましょうと、一万の軍勢を引き連れて京へとやってきた。為義も感激して親子の面会をする。そして引き出物に吠丸を与えたところ、教真別当は『私が頂くわけにはまいりません』と権現様に奉納してしまった。

∑( ̄Д ̄ll) おいおい、もったいないだろう。

為義は宝刀を一つなくしたので、代わりの刀を播磨の鍛冶に作らせた。獅子の子に似せて作らせたところ、目貫に烏を彫ったので『小烏』と名付けた。

ところが小烏の方が二分ばかり長い。

二本の刀を障子に立てかけておいたところ、からからと独りでに倒れてしまう。これはしまった。刀は折れていないかと見てみると、小烏と獅子の子が同じ長さになっている。ふしぎにおもってよくみると、小烏の茎が折れていた。これは獅子の子が小烏を切ったのであろうと、獅子の子を『友切』と呼ぶことにした。

良いところですが、ここでつづく……

なかなか、書く方はこれでもしんどいのです。だいたい五分の一くらいに短くしていると思います。

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