大原安綱再考
大原安綱については、統一された見解がなく、地元びいきも絡まってわかりづらくなっています。そこでもう一度季節君も勉強してみることにしました。
もちろん、太平記や平治物語、源平盛衰記、平家物語などを調べるつもりです。
((+_+)) しんどいかも
さらに、これらの文書もそれぞれに見解が違っていて難しい。
とりあえず今日は伯耆誌を見てみました。
江戸時代に編纂されたものですが、日下の大原鍛冶については記載があります。
旧岸本の大原、日野町の大原、日南町花口の大原は地名の記載のみでした。
日野郡誌も江戸の編纂です。
口伝として大原鍛冶のことが書かれています。
伯耆民諺記(伯耆民談記)については、倉吉の藩士が「会見郡には大原村は存在しないから、大原安綱は倉吉に違いない」と書いています。
確かに、江戸時代の会見郡には大原の地名はないのですが、平安時代には日下が大原の地であったとする話、八郷の大原村も会見郡であったとする話があります。(地名辞典など)
実は、大原一門には20人を超える刀鍛冶が存在し、伯耆各地で活躍していただろうと考えられます。安綱名や真守名も複数いたようです。さらに、この集団は技術に優れ、どの鍛冶の刀もきちんと技術が伝承されていたようです。そのため、どの人の刀にも大原鍛冶の特徴がよく表れているt解説書にはあります。
阿毘縁の大原には山伏塚や屋敷跡があるというし、日野町には大原神社や奥さんの塚、製鉄跡も同時にあるようなので見学に行こうと思います。
岸本の大原は大原神社や伝承、見取り図がありますね。
倉吉の大原にも現地を見に行こうと思っています。案外ここが都会だったので、大原鍛冶最終の地だったのかもしれません。
皆がウインウインになるように願います。