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2012年06月

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おいしいお茶とおまんじゅうを1個いただいた後、踏査を続けます。


o(*^▽^*)oごちそうさまでした ♪


近くの向谷たたら の跡に行きカナクソがあるのを確認した後、槙木の原というところに入りました。



ここには山内(製鉄の村)のあった伝承があるそうで、時間がないので入口まで案内していただきました。


かなり広い集落跡と祠も昔はあったそうです。


こんど来る時は山内跡まで入って、村の跡を確かめてみたいです。


 


次は桃木谷尻遺跡。


前回の生産遺跡調査ではたたら場か鍛冶場かわからないと記載されています。


それは壁山がないし近くにたたら場が多いので他で製鉄したかもしれないとの考えのようです。


しかし!!です。


同行された方がしっかり発見をされました。


 


そう、またしても羽口を発見されたのです。


ここでもふいごを使った製鉄がおこなわれていたのはまず間違いないと思います。


幅30メートル、長さ80メートルで3段になった平地。さらに祠の跡もありただの鍛冶場にしては広すぎますね。



 このあとすぐ隣のウロノ下遺跡に行きましたが、ここはすでに圃場整備して田んぼになっています。痕跡はまったくないのですが、則面に残ったカナクソが田んぼに落ちて困るのだそうです。


 


谷道に入ると水路の跡があり、昭和中ごろまで木で作った水路が道路の上に渡してあったそうです。


 


さらに帰りがけに近くの民家の庭ではこんなものを見つけました。流石に日南町ですね。



山には1トンくらいの出来損ないのケラかカナクソと思われるものがあちこちに放置されています。


 


日本での製鉄は炉を1回1回壊し、炭のできる場所を求めて移動します。ですから製鉄炉がどんどん作られます。


また、太平記によると伯耆の国では大同の時代(西暦800年)には刀づくりが行われていたといいます。ですから1000年くらいは鉄を作り続けたのでしょうか。


鳥取藩では政策的に鉄山氏が増えるのを容認しましたから30を超える鉄山氏が競って鉄づくりをした歴史があります。近藤家に至っては一家で12の鉄山を同時に創業したりしています。


そういったことから日野郡では数限りなく製鉄遺跡が見つかります。


現在では200余り、鳥取県全体で500の製鉄遺跡が確認されていますが、今回も数か所の新たな確認がありました。調査を続ければもっと増えるでしょうね。


今後も調査を続け、きちんとした本にして出版したいと思っています。 


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ここで速報です。ただ今事務局が調査から帰ってきまして連絡を受けました。


精査の結果、前回記載しました阿太上げの製鉄遺跡は鳥取県生産遺跡調査の阿太上西とは違うポイントであったと確認されました。


したがって、大宮のみなさんに教えていただいた遺跡を 『阿太上西ノ上』 『阿太上西』 『阿太上西ノ下(今回、羽口を見つけ山内集落を確認したところ)』


と分類命名しさらに 『阿太上東』 、『阿太上北』を確認しました。


 


阿太上を後にし、みなさんと次の目的地に向かいます。


途中、吉たたら に寄りました。


ここは近藤家のたたら場で大正10年まで、つまり国内ほとんどすべてのたたら場が閉鎖する中で最後まで行われていたたたら場です。


砂鉄が非常に優秀で刀を作るための印賀鋼が作られた場所。


海軍に対しては低燐鉄、つまり燐分を少なくして大砲や弾を作った 弾はがね の主産地です。


民家が多く建ち並び、数百人の集落が近年までありました。


現在でも数件の家があり、そのうちの一軒は本小屋(元小屋)であったろうと思われます。


裏山には堤もあります。


ここでは創業当時の予想図を看板にしようと地元のみなさんが動いておいでです。


ここを流れる川は今でも真砂で埋まっています。


 


吉たたらを見学した後、立石方面に移動しました。こんな昔の道しるべのあるところです。



ここは100メートル間隔でたたら場の跡があり、最も製鉄遺跡が密集した場所の一つです。


山間には堤や水路跡があり、鉄穴流し(カンナながし)で谷が埋まって田んぼができたようなところです。山頂はすぐそばに迫り、その際まで田んぼになっています。


田んぼにはカナクソが落ちていて作業しにくいのだそうです。


 


カンナ流しとは、真砂山のキワをどんどん掘ってゆき最後に山が崩れる瞬間にみんなして逃げるんですが、逃げ遅れることもあったのです。


この近くでも、明治に家族6人が山の崩落から逃げ遅れ全員が亡くなって、その家が絶えてしまったそうです。


ここが家のあった場所、あそこに水路があって、あそこで事故が起こった、、、というのを生々しく聞いてしまうと悲しくなってしまいます。


(ノ_・。)


 


ちょっと、地元のお家に立ち寄らせていただいてお茶をご馳走していただきました。


気を取り直した後、地図を参考にもう一度作戦会議をひらきました。



さらに続きます。


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今日は日南町大宮の皆様が、たたら場の現地調査をされるというので季節君も連れて行っていただくことにしました。


少し雨模様で、メモをとったりするにはまずいなって思いながら集合場所に行くと、すでに皆さんお集まりで準備万端です。


たたら顕彰会の事務局さんが遅刻してるんですが、携帯電話を持ってるんで何とかなるでしょう(その後、圏外であることが判明し事務局さんは置いてきぼりになります)


 


ガイドしていただく方は、若いころから山を歩き回っておいでで、『このあたりの山は私の庭のようなものさ』って方です。


おお!心強いです。このような方がいないと、見ず知らずの山でたたら場を見つけることなど到底不可能です。


さっそく地図を広げて作戦会議が始まります。


 



ざっとした説明を聞いた後、ぢゃ、とりあえず阿太上に行きましょうか。ということになり10人ばかりで出発です。


 


阿太上とは京都北面の武士だった古都文次郎がやってきて鉄を作ったという有名な伝説の残る場所です。古都家はその後、日南町の大庄屋として繁栄した歴史があります。


日南町では由緒正しきたたら場なのですが、古いだけに場所の確定が難しいんです。


日南町の方でも阿太上の場所を確認できた人は多くないです。


 


山道を車で走りながら皆さんで雑談していたら到着です


し、しまった!


季節君はしゃべりすぎて場所を確認できていません。ただでも方向音痴なので、レポートにすることができないです。。。。


あわてて、携帯ナビを起動させますが電池切れで位置を特定できません


il|li _| ̄|○ il|li


事務局の先輩におしかりを受けることになるんだろうなって思いながらそれでも気を取り直して、メモを取り始めます。


(ノд・。) グスン


 


小川を渡った先には平地があり、ここには祠があったそうな。


 


さらに車で上流に行くと、カナクソの沢山出るポイントに到着。


こんなのが落ちてましたと、ふっと、見せてくださったのが、、、これって羽口ではないですか!


 


(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-


これは大鍛冶の送風管です。これがあるってことは、ここに鍛冶場があったってことになります。


大発見ぢゃないでしょうか。


そう思ってあたりを見回すと、カナクソが大量にあります。


小川には大小のカナクソが今も沈んでいます。


パラダ~イス ♪<(T◇T)>!!!


その上流側には墓石らしきものが埋まってるし、、対岸には30メートルくらいの平地があって、カナクソで埋まっています。


 


その後もあちこち見て回りますが、堤の跡やカナクソの大量に出るところがあっちこっちにあります。


堤は、鉄穴流しの可能性もありますし、金池だったりします。


あまりに多くの情報が一度に入ってくるものですから季節君はパニックになってしまいました。後日ゆっくり確認する必要がありますね。


殴り書きした自分のメモも解読しなくてはならないし 「(´へ`;ウーム


 


その後、迷子になっていた事務局さんと夕方もう一度、阿太上げを歩いてみました。


すると、住宅跡、祠跡、気呂の出た場所、平地、カナクソのたまっているところ、墓石のあったところが川に沿った一つの図面に落とし込むことができました。


これって、300メートルくらいの一つの山内を形成してますね。


おそらくここが伝説に残る、江戸時代まであった鉄づくりの村 阿太上集落でしょう。


ここは前回の生産遺跡調査に書かれている西阿太上げになるのか東阿太上げになるのか、それとも北か?ますますわからなくなってきました。


やっぱしもう一度調査をやり直さなくては。。。


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たたらの遺跡調査の好きな先輩と、根雨楽舎でいろいろと話し込んでいました。


朝狩山の話をすると、どうも一致しません。


金屋子神社の祠は今もあるという先輩と、いや、もうなかったと言う私。金屋子神社は山内の一番下にあったという私と一番上だったという先輩と。。。。


それぢゃ、もう一度行ってみるけんね! ( ̄∩ ̄#)


 というわけで私はまたも夕闇迫る中を朝狩山を目指すことになりました。


山道を車で走りながら、そういえばこの辺りに滝に上る古い山道があったよね。と思って探すとやはり旧道はありました。


昔の人はこれをテクテク歩いて上がったのでしょうね。いかにも鉄山は隠れ里と言った感じであります。


昔から鉄作りは秘術で、ひっそりと山内で作り誰にも教えなかったと言います。


そして滝を迂回してふたたび朝狩山内へ到着。


金屋子跡が入り口にあるのをしっかり確認して、石垣やカナクソの位置を確認します。


一番上の石垣は意外と長く測ると90メートルの長さがありました。しかしその上にはカナクソがまったくないことから、ここが高殿かなと思います。その下の石垣の際には捨てられたカナクソが大量にありました。


その下の石垣の際にも、道路にもカナクソがあることから下の段にも高殿があったらしいのです。


これは専門家が測量でもしないと、今は確認できないでしょう。


道路と朝狩川の間も広く平らになっており、川に下りるとそこにも石垣が築かれています。



きっと川沿いに小割長屋があったのでしょう。


だから私の言ったとおりでしょ。ぶつぶつ文句を言いながら歩いて山道を歩いていると、枯れかかった大きな木の下に やややっ!祠が見えます。



これが先輩の言っていた引越しした金屋子神社でした。


山仕事をする人が今でもおまいりしていてお神酒が備えてありました。


へ~って感心してしまいました。


そして帰り道が なんかぐりぐりするぞってよく見ると、道路は小さなカナクソで舗装されているのでした。


うーん、恐るべし 朝狩山 こんな立派な山内が残っていたのですね。


 


 


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(前回の続きです。)


山中に不自然な石組みを見つけ近づいてみます。


倒木を払い、草を掻き分け、落ち葉を取り除きしてみると、、おおっ!!


これはまるで石段のように見えます。



さらに、この両脇にはしっかりと石組みがあり、まるで神社の参道のようではないですか。


石段を踏みしめて恐る恐る上がってゆきます。日は傾いてうっそうとした茂みの中では少々心もとないです。


その上は広くなっていて、神社の境内のようですね。


ギャー。鳥の鳴き声に驚いて一歩踏み出すと大きな石に躓きます。


小心者の季節君をいたぶっていけない鳥です。


何でこんなところに邪魔な石が、、、大きな2枚の石が敷いてありました。この光景は、まさに、都合山の金屋子神社にそっくりです。



ああ神様。ついに、季節君は朝狩山を見つけたようです。


古い言い伝えによると、これより上流側に3箇所の高殿があったらしいです。


つまり、他の山内がそうであったように30年おきに3回以上の創業があったことになります。


(寛政3年と明治13年は文書で残っているようです)


そう思って振り返り、あたりを見回すと、不自然な広場があちこちに見えます。


ここに元小屋や、小割り長屋があったのでしょうか。


上流側を歩いてゆくと小さな小川をはさんで石垣群に出ました。


 


一番下が30メートルくらいの長さ。石垣の両脇は土を削った則面となっています。


その上は40メートルくらいの長さの石垣で、あちこち崩れています。


さらにその上は50メートルを越えるくらいの長さで地形に沿って大きくカーブした石垣。


高さも5メートルくらいはありそうです。



その上が平らになっていて壁山の際まで平地になっています。


ここがおそらく高殿や鍛冶場があったところでしょう。


石垣で囲って一番上が高殿、そして下へと石垣がつらなる。


舟場山や都合山によく似た地形になっているのは、やはり江戸末期~明治期の近藤家の創業地であったからでしょうね。



あちこちの石垣は今でもカナクソが一面に堆積しています。



ここの道はカナクソで埋まっていたそうですが現在はその上にバラスが敷き詰められています。数年前、このバラスが川の氾濫で流れたときにはやはり地下の大量のカナクソが出てきたそうです。


30年前の調査では「田を構成する石垣が崩れて、カナクソが出る」と書いてありますが、この石垣自体がカナクソで埋まっているのですから、鉄山を構成した石垣なのは間違いありません。規模もかなり大きい鉄山だったことが今回訪れてみてはっきりわかりました。


近藤家の文書には、朝狩山はなんと書いてあるのでしょうね。


 


最後の創業の後(明治13年と金屋子には書いてあったそうです)、ここ、狩山の太郎さんは根雨の町に出てお店を開き成功し、それが現在の老舗旅館『朝勝』となったのです。


(そっちのお話のほうが有名だったりして)


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