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2011年11月

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製鉄遺跡のお話が続いてしまいますがお付き合いください。


ちょっとだけ前のお話しになりますが、谷中山と言うところに行きました。 近藤家が初めて鉄山を創業したのがこの谷中山です。そして何度かに分けて操業され続け大正10年に最後までやったのも谷中山だったと記憶しています。現在は木下家の持ち物のようです。(正確には上谷中山と下谷中山があります) 大正時代と比較的新しいところで山の中のため開発もされずよい保存状態で残っているらしいのです。ぜひ行ってみたいと思い、木下家御当主とお話した折に行かせていただくことをご了解していただいていました。


いつもどおり伯耆国たたら顕彰会の同僚と行くことになりました。日南町山上と言うところから入ろうとしたのですが道路工事中。 仕方なく大きく迂回してゆきます。こうなるともう土地勘のないものにはわからない小さな路です。これでも昔は備後街道という立派な名の付いた街道だったのですよ。と説明を受けながら車を走らせます。備後への道なので備後からやってきた近藤家にはなじみがあった土地なのかもしれません。



風情があってゆっくり山歩きしてみたい小路でした。


そして確かこの辺でしたが、、、とうろうろしていると小川の向こうに石垣が見えてきました。



車を止め、小川を渡ります。カメラを水没させるといけないので、防水カメラを持って行ったのですがこれが失敗。レンズの径が小さいためか写真が暗くなってしまいました。 あちこちに低い石垣が作ってあります。水路、金池(炉から出された鉄の塊を冷やす池)などが見て取れます。そして大きな柱の木が横たわっていました。



これが おったて柱ですね。鉄山は、炭となる木を伐採してしまうために10年程度を周期として移動を繰り返していたそうです。そして次にくるときの目印にと一番大事な本床(炉のこと)のある高殿の柱を残したのだそうです。柱は3本を確認することができました。


もう次にくることはないと知りながらも廃業するのに際して柱を目印に残していった、、、先人たちの気持ちはいかばかりであったでしょう。 さらに奥の壁山付近に金屋子さんの基礎石がありました。(壁山というのは炉の周辺に風除けの壁となる山を配置した地形のこと)



水車があったらしいところには柱が立ったままぽつんと残っていました。この柱もまもなく倒れてわからなくなってしまうでしょうね。 さまざまな配置も伝承どおり状態のいいまま残っている製鉄遺跡でありました。このままそっと残っていて欲しいなって思いながら、昔の人たちの残念な思いを考えると自然と無口になってしまう季節君でした。


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(前回からの続きです)


秋の夕暮れはつるべ落とし、夕暮れの道を車を走らせていると、、ややっ!! こんな看板が出ています。


 


 


そう、知る人ぞ知る、知らない人はまったく知らない呼子山たたらの遺跡地です。 以前ここを探して進入し季節君は迷子になったことがあります。(以前書いたことがありますが、)今日は伯耆国たたら顕彰会きっての遺跡通が一緒してますので案内していただくことにしました。



そこはとてもきれいに整備されていて公園のようになっています。というか、公園として整備していたら遺跡が出てきたので無理に壊す必要もないし残しておきましょう。という感じです。高殿の脇にはわずかに小舟(製鉄炉の地下構造)の通気穴が覗いています。かなり深くて奥は目視できません。



周辺を歩くと長靴の底をとおしていつものぐりぐりとした足裏感覚があり、鉄滓(製鉄クズ)が埋まっているのがわかります。ここまでわかるようになれば季節君はベテランと呼ばれてもよいでしょう


( ̄ー ̄)ゞ フフッ


 


小川も引かれ周囲の山肌には削られた粘土層と真砂の地層が見て取れます。(粘土は炉の材料となります。真砂の地層からは原料の砂跌が取れます) 少し離れたところに金屋子さん(製鉄の神様)も祭られています。



典型的な山内(製鉄のために作られた集落)を形成していますね。鉄山墓もきっと近くにあるのでしょう。 暮れ行く秋の夕日に映える紅葉を見ながら、この地方で昔の鉄山に生きた人々の暮らしに思いをはせる季節くんでありました。


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次に向かったところは上夏ヶ谷というところ。 車を止めていきなりあたり一面にカナクソがごろごろ。このところたたら場を歩くことが多いので、歩いた感じでたたら場だってわかるようになりました。


写真の右端に緑のジャンパーの人が写っています。これでサイズはわかりますよね。若い女性だったらアップで写してもいいんですが、残念ながら。。。。


 


(気を取り直して)やはり道路に近いので周辺は田んぼになっています。土中に埋まった大きな鉄滓が見えます。



こういうのって掘り出したらとんでもなく大きいとか。もし1トンくらいのが出れば本床近辺に間違いないんですが素人が掘ってはいけないのが遺跡調査です。 鉄滓も非常に多く水路も張り巡らされ、平地も広くいかにも高殿があったでしょうという地形になっています。阿毘縁では法橋二家と木下家が山を分けて鉄作りをしたという古文書がありますのでどちらかのたたら場でしょうね(これが山分けの語源になったと言う説はないですかね)。残念ながら金屋子さんや鉄山墓は今日のところ発見できませんでした。この場所は鳥取県生産遺跡調査の資料にはない遺跡ですので新たに書き加えられることになります。 そしてこの奥にもまた、鉄滓が出るところがあるそうです。このあたりは以外にも赤目砂鉄なのだそうで、粘りのある鉄作りを得意としたそうです。 日南町は山が深く谷も多いためいたるところに製鉄遺跡が眠っています。奥出雲が御三家に限定して鉄作りをしたため、伯耆では出雲からやってきた鉄山師も群雄割拠し、結果としてこのように膨大な製鉄遺跡郡が残されることになったのでした。 これが伯耆の国の経済を支えたのだなってぼんやり考えてしまいました。


おそらく本床があるであろう小高い丘は周囲がぐるりと田んぼになっていて歴史を感じさせる風景を形成していました。


そして、ついに高殿発見!


 


 



 


とおもったら私の知り合いの民家でした。外観がそっくりなので、高殿の作り方も民家の作り方を流用したんでしょうね。こうしてみるとよくわかります。おそらく現実の高殿もこういった感じで風景に溶け込んでいたのでしょう。


それでは日も暮れますから続きはまた今度と、ガイドしていただいたかたにご挨拶し帰り道を急ぎます。秋の夕暮れはつるべ落とし、夕暮れの道を車を走らせていると、、


ややっ!! こんな看板が出ています。


(おしいところでまたも続きます)


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このところ伯耆国たたら顕彰会の先輩と製鉄遺跡を見に行くのにはまっています。 地図を頼りに、昔鳥取県が出した生産遺跡調査報告書や近隣でのうわさを聞き取り現地確認に行くのです。足元に鉄滓が落ちていたり金屋子を祭った祠があったり、水路、鉄山墓などを指標として調査します。素人調査なのでけして発掘はしないよういわれています。調査結果は鳥取県教育委員会に報告し、まとまったら出版物にしたいと思っています。


というわけで今日は日南町の阿毘縁(あびれと読む)に行きました。大谷というところにある元小屋(製鉄工場の事務所)が春の雪で倒壊したので見に来てほしいという現地の方からの連絡を受けての視察です。


途中、久住というところを通過しますが、ここもたたらが行われていたところなので、いずれ調査は必要です。いきなり橋にこんな名前が付いていてびっくり仰天です。



これは たたらどこ? ではありません。たたら床です。この近くに本床があったのです。


 


さらに日南湖畔の公園には鉄滓の大きいのが置いてあるよと教えていただき寄り道をしました。あちこちにけらと称して置いてありますが、けらは鉄製品そのものなのでそれが放置してあるはずがありません。これは炉の底などに残った不純物と赤土が固まったもの。つまり大きな鉄滓のかたまりなのです。ですからここの表示は正解です。


 


そして大谷に到着。大谷は木下家が最後に創業した大正8年ころの生産遺跡であると鳥取県の調査にはあります。元小屋は完全に倒壊していて、持ち主さんには中に入る許可はいただいているのですが危険で入り口しか入れませんでした


 


外周は8×15メートル。おおよその間取りは地元のかたでご一緒いただいたHさんから聞き取りできました。 高殿(工場部分)があったところは田んぼになっています。交通の便のよいところにある多くの遺跡は農地や宅地に転用されているのは仕方ありません。昔の道は残っていましたが大きな舗装道路も付いていました。水利も山から引かれ昔は水車も配置してあったそうです。


田んぼの周りを歩いていると足元がピンポン球くらいの石に変わります。この感覚はカナクソだなって最近わかるようになりました。そして金屋子神を発見。田んぼの隅にひっそりと建っていました。 おおまかな地形と建物の配置を聞き取って図面に落としました。 この山の奥にも多少の鉄滓が狭い範囲で出るので古い野だたらでしょうとのお話。そういうのがおもしろいのですが、今日は時間がなく遠くには行けません。 この少し近くで、できれば自動車ですぐ行けて、5分以内に見れる遺跡はないですかね?なんて調子のいいことをお聞きすると、、、、『じゃ、行きましょう』って、あるんかい!とつっこみをいれてしまいました。(;^◇^;)ゝ イヤァ つづきます。


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先日、日本鉄鋼協会主催のフォーラムが古代出雲歴史博物館で開かれました。 その帰りに根雨楽舎に新しいたたら展示施設ができたらしいので、ということで皆さんがおいでになりました。そのお話は以前書きましたが、そのおりに『財団法人 JFE21世紀財団』よりDVDを寄贈していただきました。



江戸時代に狩野派が描いたたたらの絵巻きなのですが、これが山口県で見つかり、東京大学に保存されています。それをデジタル画像として取り込み工学博士の天辰先生が解説を付けられました。まさにそのDVDなのです。 さっそくパソコンで見てみることにします。すると、、、絵が見えない。私は新旧というか化石に近いようなものも含むと結構たくさんのパソコンを持っているのですが、このDVDは最新のフラッシュ技術が駆使してあるので新しいタイプのフラッシュプレーヤーが入ってないと見れないようでした。そこで新しいおろしたてのパソコンを持ってきます。


えっへん! ちょっとだけ威張りながら改めてDVDを挿入。スタートさせると! ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪ すごいのです、すごくよくわかるのです。 まさに江戸時代に行われた「たたら」が、当時の絵師によって描かれ、それが現代の技術によってよみがえったのであります! 色も見事ですし、詳細に描かれていて当時の様子が手に取るようにわかります。 そしてその絵巻が、ステージごとに区切られ、丁寧に解説文が入っています。


私たちが勉強してきた伯耆のたたらとほとんど同じですが、伯耆では海砂鉄を船で運んだりするのはなかっただろうと思いました。その代わりに日野川を綱渡しの舟で運んだようです。 このところあちこちの山内遺跡を見ているので、この絵を参考にして伯耆のたたら場の絵を描いてみたいなって言う衝動に駆られますね。 このDVDを根雨楽舎と日南町大宮楽舎には配備しようと思います。 できれば日南、日野の図書館にも置いていただこうかな?でもこの絵図の深い意味がわかってもらえるだろうか?などと考えをめぐらせる季節君でした。


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