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2011年10月

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日ごろいろいろお世話になっている鳥取県教育委員会の室長さんから連絡がありました。


文化庁の視察を受け入れて欲しいとのお話です。


ええ!って驚いちゃいましたね。私なんか。


だって文化庁って日本国政府のあの文化庁でしょ! 文化包丁とは違うんですから。


なんでも文化財監査官ご自身から鳥取県なら根雨に行きたいとおっしゃったそうです。


おそるべし文化庁です。こんな田舎町のことまでご存知なのでありました。


準備万端ぬかりなくと早めに根雨楽舎に行くと近藤さまが先に受け入れ準備をしてくださっていました。


ありがとうございます。


すると近藤さんの携帯に私の妻からの連絡が、、、


ああっ!急いで家を飛び出したので私は携帯電話を忘れていたのでした。


どこまでもどじな季節君でありました。


若干の時間の遅れはありながらも、視察は順調に進み、根雨楽舎→旧根雨公会堂→近藤家本宅。


地元の人でも近藤家に入った人はいませんからね。


私ごときが申し上げることもできませんが、根雨にもこんなにりっぱな建物があったのですね。私にはわかりませんでしたが洋間の床の模様はプリントではなく組み木細工で作られた床なのですと監査官が説明しておられました。


う~ん。深い (@_@;)


そして監査官をお見送りした後、いよいよ担当者が集まっての次年度計画の策定が始まりました


つづく


 


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以前、絵画を伯耆の国たたら顕彰会に寄付していただいたことを書きました。


それは小説TATARAの表紙になった絵で、画家の 倉鋪さん にお願いして描いていただいたものでした。


くらしきさんの個展のおりに この原画を拝見し、その美しさにみいっていたらあまりに物欲しそうだったのでしょう。「この絵はよろしかったら、たたら顕彰会に寄付しますよ。」とおっしゃってくださいました。


ふとっぱらです!その絵に額をあつらえようやく根雨楽舎に展示することができました。



サイズがちょっと複雑でして10号の横長サイズでした。それに合うサイズの額を探し購入したのですが、額のデザインに悩みました。


暗い建物だし、絵も暗い感じなので存在感のあるような額にしました。ごらんになった方からは「日本建築にあわね~な」というお声もありましたが、なんのなんのです。


そのうちみなれるっしょ。ということでこのまま展示させていただくこととします。これでまたひとつ展示物が増えました。


 わあい\(^▽^\)(/^▽^)/わあいっ


皆さん見に来てくださいね。


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日野町の影山町長さんが我が家においでになりました。


1枚のチラシをお持ちです。日経新聞のコピーでした。


はて?何ナノかなってお聞きしたら、日経新聞社の記者さんが財政再建についての取材においでになったようです。そのときに日野町は元気ですよと町長さんが記者さんに手渡されたのが小説「TATARA」。


こうして町民自身が町の再生に取り組んでいるとおっしゃいました。うれしいではありませんか!


v(*'-^*)-☆ ok!!


10月24日の日経新聞。しかも全国版(あたりまえか)。27面の時流地流という欄をご覧ください。


財政再建とたたら製鉄という見出しで、小説TATARAが松本薫さんとともに紹介されています。


うれしいじゃござんせんか。こういったメディアでの掲載が少しずつ町の活性化に貢献してくれると信じます。


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先日、日野町公民館からこのようなものを展示品としてお預かりすることが出来ました。



これは磁石がくっつく事から鉄であるのは間違いありません。


さらに、流れ出たような形状であり、端っこが折られています。


これは湯地口から流れ出た銑かな?と思いました。


たたらによる鉄作りには、鉧押し法と銑押し法とがあります。


山陽では主に赤目砂鉄を使い、炉の湯地口から流れ出る鉄(銑鉄)を造ります。それでも炉の中にはいくらかの鉧(けら)ができます。


山陰では多くが鉧押し法でした。砂鉄を木炭で焼いて溶け出る不純物をノロとして湯地口から出し、炉の中には鉧(けら)を造ります。しかし、鉧押し法でも湯地口から銑(ずく)といわれる鉄が流れ出たようです。


この銑鉄が今回の展示物なのかな?と思います。


島根県の角田先生にお聞きしても、たとえ鉧押し法でも多くの鉄が銑(ずく)として流れ出るそうです。ということで昔、伯耆の国で作られたズクが展示品に加わることになりました。


このほかにも、庭先に大きな鉄の塊が転がっているんだけれど見てくれないかというご相談も受けています。まさかケラ(鉄)のはずはないのでおそらくカナクソの大きく成長したものだろうと思っていますが、伯耆の国は調査が進んでいないので何が出るのかわからない状況です。


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下原重仲は多くの名前を使っていて、謎の多い人物、その生涯も波乱万丈です。


晩年には放浪して東北にいるところを息子によって発見され、連れ帰られます。この息子さんもずいぶん苦労されたそうですが、その息子さんの末裔の住むお家の蔵に古いつづらがあったそうです。そのつづらを開けてみると読むことのできない書付がたくさん入っていました。地元の歴史愛好家の人によって鉄山要口訳という書物は、発見されました。出るべきところから出るべくして発見されたものなのです。出所も間違いないので真贋の疑いようがありません。


この鉄山要口訳はまだ分析途中のようですが、この書物の価値に光を当てるのはわれわれ下原の郷土に住むものの責務ではないかなーーなどとぼんやり考える季節君でありました。


この鉄山要口訳は今現在、古代出雲歴史博物館(出雲大社の隣です)での「たたら製鉄と近代の幕開け」展で本物が展示されています。ぜひ皆さんお出かけください。


追記)古代歴史博物館で実物を見てきました。小さな手記のようなもので、、鉄山秘書の中の重要な部分を抜粋したもののようだという解説がありました。書かれた年代が間違いなのか、なぜ抜粋が先にあるのかなどさらに謎が深まってしまいます。


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