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2010年09月

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大変なことになりました。近所の桜の古木が危ないんです。
この桜は権現神社の参堂にあります。
(権現神社とは、平安時代末期 長谷部信連が根雨に流された際、根雨を京に見立てて三谷神社を王子権現と改名したそうです。明治8年に根雨神社に合流しています。)
この桜の木はもうずいぶん古い木で、とてもりっぱな枝振りをしています。春には満開の桜がすばらしいのです。その木の枝はとても立派なのですが悪いことに道路の上に広がっています。
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いままではどうということはなかったのですが、最近になって木が弱り枝が折れて落ちてくるようになりました。
危ないので切ることになりました。残念ですが寿命のあるものゆえ仕方ないです。
切られるまでに勇姿を撮っておこうと出かけました。
いつも春にはすばらしい桜ですが、そういえば最近は仕事が忙しくゆっくり眺めることがなかったな、、、と思い寂しい気もします。
来年の春には満開の桜で権現さんと一緒に写真をとってブログに乗せようと思っていたので残念です。

木の根元には 古い石碑があり「帝国万々歳」と彫ってありました。明治29年と有りますので、日清戦争が終わったあとすぐに作られたようです。この石碑は私が子供の頃からすでにあり(当たり前であります)正面のはめ込みはその頃からすでに欠落していました。
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近所のお年寄りに取材してみました。
「あそこにはな、銅版が入っとったけど、わしが子供の時のことだけ、なんだったかわからん。大戦のときに金属のものがいるって、もっていったがな」だそうです。

この桜は残念ながらなくなってしまいますが根雨周辺には桜の木が多いので春には見所が沢山ありますよ。
いつもお茶目な季節君ですが今日はなんとなくしんみりでした。

追伸!! 
この桜は本日、町長さんが視察においでになり、「苦労して、長い年月かけてここまで大きくなったものだから、ちゃんと手入れしてもう少し見てゆきましょう。危なくなったら切るのはいつでもできますから。」ということになり、危ない箇所を整理して、枝の支えを設けて来年の春を待つことになりました。めでたしめでたし


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すぎはらみきをさんって知ってます?
私らが、商工会でたたらの資料館を作ろうとしたとき、「地元出身者を使いたい」と会長の強い押しがあってコンサルタント会社「地域未来」と契約を結びました。そこの代表が すぎはらみきを さんでした。したがって私はまだ知り合って1年半くらいなのです。が、ずいぶん前から知ってるような気がします。本業のほかにも あるときは絵描きの老人。またあるときは名もない歌うたいであったり、、正体はいまだにつかめておりません(笑)
今回、いっしょにたたら顕彰会で活動しているこの すぎはらみきを 氏が絵画展をするというので見に行ってきました。以下はそのパンフレット



ふるさと彩発見
すぎはらみきを・水彩画作品展

会期  現在開催中25日まで
会場 おしどり資料館



「いたずらに個性を主張しないこと」を唯一のモットーに、仕事として絵画を描いてきた日野町在住のすぎはらさん。でも「個性を主張しないこと」が、むしろ強い個性になっている、そんな作品の数々が、きっとアナタのこころを癒すはずです。鳥取県の広報誌「とっとりNOW」に掲載された、こころ暖まる郷土の風景画を中心に展示します。


すぎはらみきを●プロフィール
 企画制作会社の専務職として長年、商品開発やパッケージデザイン、商業空間のデザイン、イベントの企画運営、マーケティングや地域の開発計画、更にはCMソングやCM映像の制作など、さまざまな仕事に携わり、平成15年に(有)地域未来を設立。
 倉吉市のまちづくり会社「赤瓦」の立ち上げ計画、米子下町の実態調査をまとめ、また過疎・高齢化・空洞化が進む中心市街地の空き店舗を活用した「田園プロジェクト」をサポート。これらの活動の中で制作した絵はがきや一筆箋が好評を博し、鳥取県広報誌「とっとりNOW」では県内各地の風景画がレギュラー掲載された。16年春に発刊した「大山中海遊悠マップ」をはじめ、緻密なイラストマップなども数多く手がけ、観光を軸とした地域経営=まちづくりに携わる機会も多い。
 20年より、かつて日野地方に在った「たたらの歴史」の顕彰活動に携わり、日野町根雨と日南町大宮の展示施設「たたらの楽校」をプロデュース、今日に至る。


会場はおしどり観察小屋そばの うどん屋さん 隣り
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会場内はこんな感じです。入場無料なのでお気軽にどうぞ。
絵葉書やたたら相関絵図なども 販売しておられます。
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なかでも私の目を引いたのが 近藤家の水彩画です。すごいと思いません?
風情があっていい感じです。ぜひ見に来てください。

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しかしいまだにわからないのですが、すぎはらみきを さんは最後の一文字がなぜ「」ではないのでしょう?

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延暦寺の入り口のこのような看板が立っています。
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看板に書いてあるように日野町には生田長江顕彰会があります

延暦寺と生田長江のつながりについて調査いたしました。
延暦寺十二世の世竺堂大典大和尚は漢学者であったため、生田長江さんはこのかたに漢学を学んだそうです。その場面は松本薫著のTATARAにも出てきます(近日発売、予約受付中)恩師 夏目漱石を酷評したため文壇から追われそうになったりしています。
それでも女性が作る文学雑誌 青鞜の名づけ親になったりしています。このことも松本薫著のTATARAに出てきます(宣伝ばっかしですいません)
どちらにしても郷土が生んだ、偉大な文学者ということには間違いありません。

延暦寺のお庭にはこのような石碑が建っています。
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季節君の石碑も誰か立ててくれないでしょうか (^.^) ムリムリ。


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延暦寺
根雨駅の向かいに延暦寺はあります。延暦寺も長谷部信連が、京の都を懐かしんで名前を付けたということは以前書きました。
今回、ブログに掲載するためにお寺から資料をいただいてきました。

やはり延暦寺の開基は長谷部信連となっており、宝仏山の御堂に安置されていた阿弥陀如来を持ってきて本尊にしたそうです。最初は根雨公会堂より東200メートルの今でも どうやしきあと と呼ばれている250㎡の広場に建てられていたようです。ここの写真を撮るためには山中に分け入らなければなりません。。。。。。。。。(-。-)フゥ
なかったことにしましょう。
ということで弱虫な季節君はあっさり写真撮影をあきらめました。

その頃は平家方の薬師寺と源氏方の大山寺が争っており、源氏の勢力が強くなった頃、薬師寺勢力の長楽寺(日野町榎)が焼き討ちにあっています。しかし、延暦寺は長谷部信連(源氏方)の庇護で守られたようです。
そして檀家さんの多くいる根雨の町の現在の場所にお寺が移されます。そして1763年と1875年に本堂は火事にあっています。当事は消防団もいなくて近所の火事から類焼が多かったようです。現在の消防団(私のことね)は火災時の類焼の防止は至上命令です。皆さんご安心ください!
現在の本堂は明治35年に建てられたようです。あと、庫裡は昭和40年代にも火事になっています

で、わたしも愛車(自転車)を根雨駅に置き延暦寺の参道を歩いて上ります。
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途中 戦没者慰霊碑がありました。こんな小さな町でも400名以上の方が亡くなっています。あらためて戦争の被害の大きさを痛感しました。 合掌

蝉時雨の中を、汗を拭き拭きお寺本堂へ。
じゃーーん!現在はこんなに立派に建っています。
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そしてあちこちに生田長江という文字が見られます。これは何かありそうです。このお話はまた続きます。

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札所(売店)のおねえさんの明るい健康的な笑顔に見送られててくてくと歩いて橋を渡ります。そして細道を歩いてゆくとその先にはこんな感じで鳥居があります。
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でっかくて派手な鳥居よりいいです。穴場的な感じでこれはご利益がありそうだなって思いました。

鳥居をくぐると、長い石段。これを登ってゆくとずんずんお金が溜まるのかな?
いけません。下心が見え見えです。
こんなんでは神様にお叱りを受けてしまいます。
心を清らかにするために、清水で手を洗い清めます。そして、、、
階段をお金持ちめがけて猛ダッシュー!!!ε=ε=ε=ε=┏(; ̄▽ ̄)┛
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おやしろはこんな感じです。すごく沢山の絵馬が掛けられていました。多くの皆さんの願いをかなえるため神様も大変なんでしょうね。ですから、一般庶民である私は「大金持ちでなくていいです。〇〇くらいでよろしくお願いします。」と拝んできました。
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帰りには薄日も差して、お金を拾うこともなくかといってばちの当たることもなく一般庶民の私は はればれと帰路に付くことができました。めでたしめでたし。


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