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2010年09月

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このところ取材がおおいです。
たたらのお話ばかりではなく、地震10年のお話も多いのです。
今日は朝日新聞のかたがおいでになりました。
もちろん地震のお話です。
なぜか口の軽い季節君のところにお話がきます。ああ、、口が軽いから来るのか(笑)

鳥取県西部地震で特徴的だったのが、住宅再建のための支援を行政が行ったということです。これは画期的であった半面、個人の財産である住宅の再建に行政が支援を行った効果がどうかということです。このために日野町は財政難となっています。
モンダイなのは、中山間地で人口の流出に歯止めをかけるために住宅再建を支援した、その効果があったかどうかです。
何のたくわえもなく突然家を失った人は途方に暮れたでしょう。住むところをなくした人はまちがいなく親戚をたよって、子どもを頼って出て行かれただろうと思います。阪神淡路震災のときはそういう人が多かったそうです。今になって住民票に残っている100歳を超えるお年寄りの所在がわからなくなっている原因のひとつに、地震後の移動を把握できていないことがあるとか。少なくとも日野町では住処を追われての移動はなかったと思います。
また、自宅再建の支援を頂いても限度額があり、それだけで家が修復できるものではありません。自宅再建のためにはさらに数百万円の自己負担が必要です。そのための支出をするときに住民はこの地で生きることの覚悟を決めたのです。当事はその覚悟を決める呼び水になったのは間違いなく支援制度でした。
地震後も残念ながら人口減少は続いています。それは自然減だと見るのが大方の見方です。地震の影響がなかったとしても人口減少は起こっていたでしょう。ということで、私は個人的に日野町の住宅再建支援制度は効果があったと支持します。

がらにもなく、ちょっとお話が重くなっちゃったですね。
こういう難しいお話は専門家の方にお任せして、今後の日野町をどうするかというお話が私には大事なのでした。ですから朝日新聞のお話を聞いてくださった方にも、これからの日野をにぎやかにするために、たたら顕彰会を作りました。楽舎においでください。もれなく30分のオモシロ解説付きです。ついでにTATARAという本もできましたからよろしくお願いしますと宣伝しておきました。一生懸命アピールしたつもりです。
西部地震よりたたらの楽校を取材してくれないかな。。。そのほうがずっと面白いんだけれどな!と思う季節君でした。

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私用で烏取に行きました。
近道をしようと、岡山県の蒜山を通ったのですが、大渋滞でかえって時間が掛かってしまいました。
なんで、連休でもないのにこんなに渋滞するの??って考えていると、ヤキソバの看板の下に長蛇の列。娘に聞くと、B級グルメ選手権で蒜山ヤキソバが準優勝だったそうです。
よく見ると渋滞している車は県外ナンバーの車ばかりです。
ヤキソバを食べにこれだけ沢山の人がやってきて、おまけに近所のお土産やさんや、野菜の直売所まで大賑わい!経済効果が100億円って噂もうそではないだろうって考えてしまいました。
われわれがたたらの歴史顕彰に多くの人数と時間を割くのも大切ですが、こんなふうに経済効果を生み出す手段もあるんだって、おどろきました。
そういえば、牛骨ラーメンとかバーガーフェスタとか、食べ物の訴求力は大きいですよね。
いちど蒜山ヤキソバを食べて頭をやわらかくしたほうがいいのかもしれません。

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今日は鳥取県西部地震から10周年の記念フォーラムでした。
(*゚▽゚)/゚・:**:・゚\(゚▽゚*)
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といっていられるのも、家屋の被害は大きかったものの死亡されたかたもなく、しかも、家屋の復興には助成制度が設けられていたためであります。

私は、今後の10年というテーマで、人口減少にさらされた日野町を今度はどう活性化すればいいでしょうという難しいテーマでのパネラーでした。
出席していた人は現役高校生を含めかなり優秀な人たちばかりで、私はかなり気後れしていました。
ステージ脇で控えていると、今わだいの片山総務大臣がしゃべっています。内容は、、、、!!!な、な、なんと   鳥取県西部というと、今はたたら製鉄のお話が盛り上がっていますね、、的なお話でした。音響の裏側にいたので内容がはっきり聞き取れませんでしたが、片山総務大臣にまでわれわれの活動が聞こえているとすればこれはたいしたもんです。

一気にボルテージが上がり、たたらの宣伝しまくりの私のトークでした。

そして、ステージでのお話が終わり天下のNHKさんがインタビューにきます。このNHKさんのお話が抽象的で本日一番難しかったです。しどろもどろで、ありきたりの優等生の発言をした私ですがいまひとつ本音でお話できなかったのが心残りでした。
ぶっつけ本番は苦手だぞ (ーー;) の季節君でした。

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根雨の町は、昔江戸時代にはたたらで繁栄するとともに、交通の要所ともなりました。
日野川を渡る舟渡しが出来たり、宿場があったりしました。
そして、松江藩主 松平公が参勤交代で江戸にお出かけになるときは必ず根雨の宿場で宿泊されました。そのため米子から二部をとおり根雨に来る道を出雲街道と呼びました。
現在ならさしずめ、東京を結ぶ高速道路といったところでしょうか。でも大名行列には交通渋滞は無かったと思います(笑)。

根雨宿では、はじめ多里から根雨に移り住んだ資産家の緒方家が殿様の宿となりました。その後、梅林家が本陣になります。
そして時代が移り梅林家は大阪に出て行かれます。
そのとき、紳士協定で本陣の門を預けておくからね。と言われて先代の根雨神社の神主さんが本陣の門を受け取られたのだそうです。
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紳士協定の意味が良く分かりませんが今でも梅林家の玄関に本陣の門はしっかりと建っています。
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風情があって、おうちともマッチしていいところに預けられたなって思います。
万が一、季節君のうちにでも預けられていたなら、とんでもないことになっていたでしょう。      きっと。。。。。。

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世界でも類を見ない優秀な日本のハガネ。その製法である日本のたたら製鉄を世界に知らせたいとの思いから明治30年代初めにたたら製鉄を調査しドイツで発表された東京帝国大学の製鉄の権威に俵国一博士がおられます。その論文の元になったたたら製鉄の調査地は伯耆の国 都合谷と砺波でありました。

都合谷は近藤家の製鉄現場でありましたが、調査されたのは夏。炉の火入れ(鉄生産)はされていない状態でした。しかし、都合谷は大鍛冶を備えた大型工場でしたので、鍛冶場での作業工程などを詳しく確認されたようです。鍛冶場では炭素量の多い鉄などを鍛えなおして錬鉄(炭素量の低い鉄)にし、延べ棒にして製品化したりという工程が行われます。都合谷の施設の図面なども俵博士によって詳しく測量されたものが残っています。

3年前に、角田学芸員によって、その都合谷の発掘調査が終わり、俵博士の調査地であると確定され図面に載っていなかった構造なども詳しく調査されました。

そして2年前に安衛門谷と呼ばれるところで砥波の発掘が行われました。しかし、その地は俵博士の調査資料に残る配置図と少し異なります。中央の立ち木周辺の平地に調査された、たたらの遺構があります。
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その後の調査のあと、発掘した砥波たたらは新しいものであること、砥波たたらといわれるところはもう1箇所あることがわかりました。古い砺波たたらの上には帝国製鉄といわれる昭和の製鉄所が作られていたらしいのです。ここの発掘が現在行われています。きょうはそのたたら場の発掘現場の現地説明会に参加しました。

どんどん山の中に入って行き、こんなところだと資材の運搬も大変だろうにというところに発掘現場はありました。しかし、こんな山の中だから炭にする雑木が大量に手に入ったわけでもあります。

穴ぼこがたくさんあり、何がなんだか分からない状態。角田学芸員に説明いただきながら地図を眺め、私のわずかなたたら製鉄の知識をフル稼働させて想像してみます。ここに7メートルを越すやぐらがあったり、元小屋と呼ばれる事務所や山内といわれる住居があってたくさんの人が住んでいたんだなって、、、やっぱ今では想像も出来ません。想像力の乏しい季節君ではなおさらです。
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まだ、ここが俵博士の調査地だと確定できない調査段階なのですが少しずつ理解が進みます。

しかし、帝国製鉄時代の設備の遺構もあり、そのしたに砥波たたらの遺構もありでさらに現場はややこしいのです。やはり事件は現場でおきてんだ!状態でした。



わたしが現地の理解に四苦八苦しているころ、現地のお年寄りがおいでなにりました。帝国製鉄時代にここで職員をしておられた方です。

この方のお話を伺いながら現場の学芸員のみなさんたちは帝国製鉄時代の配置を確認され、さらに 明治の砺波たたらの遺構を確定される作業をしておられました。お話をすみで伺っていてもわくわくします。土に埋まった穴ぼこやカナクソ、地層の色や土が焼けた跡。その一つ一つに理由があるんだなって感激してました。

んん、、、、、おもしろいぞ!調査発掘!!

このお話は、砺波たたらであると確認された場合は詳しく発表されることになると思います。

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