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2010年08月

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根雨から出ていた舟について2つの航路を書きました。
そして今回はもうひとつの航路、根雨→米子市車尾舟に付いて書きます。
これは有名なお話なので地元の方も多く知っておいでだと思います。
頃は明治10年頃、事業を行ったのは喜西近藤喜六というひとでした。
今の近藤ご本家さんはじつは上近藤家の分家さんであったのです。で、上近藤家こそが根雨にいらっしゃったもともとの本家筋に当たります。(元祖近藤家などということもあるようです)ややこしいのですがそれが史実なのであります。

で、上近藤家の六代の次男であった喜六さんはどうせ次男だから家は告げないしっていうことで幼くして大阪に丁稚奉公に行かれます。日野郡誌では14歳くらいの書き方がしてありましたが、私の頭が定かではありません。そして勤勉、質性剛直にして商売は大成功し、巨万の富を得たとあります。すごいです。私は爪の垢をせんじて飲まないといけません。

事業成功の後、ふるさとの交通の便の悪さを嘆き日野川を利用し根雨、車尾間に川船を運行するを企て私費16000円を持って明治16年起工17年9月に開業、それより19年9月に至る間、下り荷4000個、登り荷2000個を運送した。しかし9月25日に大洪水に会い舟、事務所一切を流出しかろうじて身は逃れたけれどこれがため病を患いよく20年死去とあります。
すさまじい人生です。やはり断固として私は爪の垢をせんじて呑まねばなりません。

しかし、上近藤家はこの喜六さんを最後にしばらく記録からなくなります。60年後に突然また近藤喜六さんが古文書に登場するようですがこの人はどうやら最初の近藤喜六さんとは別人のようです。このあたりは不可思議で、おもしろそうでぞくぞくします。
古文書の解読が待たれます。

舟場橋の袂に石破烏取県知事の筆による石碑が建っていますがこれは、舟場、米子線のことをたたえたものだったそうです

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さらに権現神社前にも記念碑が建てられています
日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり という喜六自作の句が書いてあります。
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この碑は、私が子供の頃権現神社の大木を切り出すときにトラックがぶつかり壊してしまったためセメントで修復してあります。

しかし、日野町誌に載っている写真もセメントで修復されています。

つまり、トラックより以前に真犯人が居るってことです。さて真犯人は誰だったのでしょう。これも面白そうでぞくぞくしますが、、古文書には載っていません


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日野町図書館に行きました。
根雨に港があったとの情報を入手し、調査に向かったのでありました。
日野郡誌を探すんですがわかりません。いくら探しても発見できません。
あら、松本薫の「梨の花」があったわ!とか、たたら関係の本って意外とおおいなとか、、、へ~~~、、、ち、ちがうんです。探しているのは日野郡誌なんです。
この時点ですでに挫折しそうであります。本の山を見上げて迷子になってる私を見かねて書士のおねえさんが声を掛けてくれました。
「日野郡誌を探してるんですがわからなくってね」というと、カギのかかっているロッカーを開けてくれました。なるほど、二度と手に入らないような貴重な資料はカギがかかってるのですね。
で、根雨の港について調べてみると、、、ありました。
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当事の日野郡はずいぶん交通の便が悪くて苦労されたようです。そこで、、、
天保の末年緒方四郎兵衛氏の考案にて日野川の内矢戸根雨六里のところ川路を修理し川舟を通わせ砂鉄等を運搬せしめ鉱業の便利を図るを目的として、、、

やってみたんだけれど、最初はうまくいったのね。でも川が増水するたびに水路が壊れ修理をしなくちゃなんないので、やめちゃいました。
今となっては根雨神社の後ろに湊河原といへる名を止むるのみなり
ということでした。
ちなみに緒方さんというのは日野町黒坂の大鉄山師で国宝の巻物3巻を神社仏閣に寄付されたりもしています。

湊河原という地名を探して根雨の町を歩いているとこんなものがありました。
お暇な方はさがして見てください。案外難しいかもね。
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今は湊のあった辺りはこんな感じです。
ちなみに湊は舟の集まる場所という意味、船着場はなく舟を岸に乗り上げる場所といった漢字だそうです。。港は新しい漢字で船着場のあるところのようです。
鉄橋の左岸にはこのあたりでは有名なおしどり観察小屋があります。
鉄橋が走り(鉄橋は走りません!走るのは電車です)おしどり観察小屋ができるなんて当事の緒方さんは思っても見なかったでしょうね。
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おしどり観察小屋については冬のシーズンに紹介しようと思います。
おいしいうどんやさんや資料館のケーキが美味しかったり(夏も開店しています)なかなか楽しいスポットです。

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日野町根雨の町外れに日野川に架かる橋があります。
その橋を舟場橋といい、対岸の集落を舟場といいます。
なぜ舟場というかというと、ここに船着き場があったからです。
昔の日野川は水量も豊富で渡し舟や上流、下流への貨物運搬用の舟もあったようです。
この渡し舟によって松江藩は参勤交代をしたわけで、橋の袂に当時のイメージでブロンズ像が建っています。この橋を架け替えるとき、若き日の私も参加して作戦会議が開かれました。結果は、根雨の歴史的イメージを残し、後のメンテが要らないものということでこのようになりました。
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今思えば、この橋を作るときでも、リバーサイドひのを建てる時もなぜか私は委員になっていました。しかし、おばかな提案ばかりしていたようでまったく採用されませんでした。しかし今もいろいろなところで委員になっているところを見ると、まだ世の中の人には見捨てられていないようです。なぜなんだろ?とめずらしく神妙に考えてみたりもします。
ま、考えてもわからないことの多い世の中です(笑)
わたしのようなおばかな人間はさておき、どうか優秀な人、日野郡の活性化のために力をお貸しください。
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そして看板もこのようにしっかり立ています。

日野川の利用には他にも舟が行き交っていました。根雨→米子。あるいは日南→根雨便です。
このお話はまた今度。。。。

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今年の夏は暑いです。暴力的な暑さです。こんな暑い日は早めに仕事を終えて冷たく冷えたビールでも飲んで、、涼みたいものです。
また、日野郡は鮎つりの名所です。私などは夕方 ちょっと日野川に行き鮎つりで涼んだりします。

話は変わりますが、先日、この猛暑を収めるために雨乞いでもしようかというお話がありました。
聞くところによると根雨は、雨乞いの本場らしいのです。雨乞いに本場もメッカもあるものか、、という気がしましたが調べてみました。

日野町誌によると、、
元明天皇の御代、国内旱魃(かんばつと読むのね)のため五穀の苗が全部枯れてしまい国民が困り果てていたとき、この神社に(根雨神社のこと)雨を祈ったところ、たちまち神感があってこの里から甘露のような雨が降り始めて国土が潤い五穀の苗も青々と茂り、やがてよく実って国内が豊穣となった。このとき雨が草木の根を潤したというので、根潤う から転じて根雨という地名が生まれた
となっています。
へ~~根雨ってすごいのね。国土を潤してしまうのね。と感心しました。

しかし、、、ここ2日ほど夕立です。
毎年、この時期には日暮れ前に夕立が振ります。夕立3日というそうで、しばらく夕立が続きそうです。
仕事帰りに、ちょっと鮎つりにでも、と思い舟場橋の上から日野川をのぞいてみるんですが、増水してしばらく鮎釣りに行けそうもありません。

そうそう、舟場橋のたもとには舟場の名の由来を記した碑があります。根雨の名の由来のあとは、舟場の名の由来でもと思います。
そのお話はまたこんど。。。。

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根雨の高台にそびえる公会堂。これは近藤家から根雨の人々に送られたクリスマス?プレゼントだったってことは前回お話しました。
その公会堂の前庭でこんなものを見つけました。
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となりに説明看板があります。
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この石は、和鉄の製鉄工場であった たたら場の跡地から出たものです。高殿と呼ばれる工場の建物の炉の地下構造にあったものです。
炉は高温で火をたき続けるため、地下に水分があると温度が上がらず、また地下の水分が熱せられると水蒸気が噴出したりするので、地下に水分が入らないよう工夫されています
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(たたらの楽校 根雨楽舎に展示してある炉の地下構造解析図。近藤家所有)
その頃の詳しいたたら場の様子、庶民の暮らしなどは根雨のたたらの楽校に展示してあります。面白い30分の無料解説付きで土日オープンしていますからおいでください。

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