貨物舟 根雨から米子へ
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そして今回はもうひとつの航路、根雨→米子市車尾舟に付いて書きます。
これは有名なお話なので地元の方も多く知っておいでだと思います。
頃は明治10年頃、事業を行ったのは喜西近藤喜六というひとでした。
今の近藤ご本家さんはじつは上近藤家の分家さんであったのです。で、上近藤家こそが根雨にいらっしゃったもともとの本家筋に当たります。(元祖近藤家などということもあるようです)ややこしいのですがそれが史実なのであります。
で、上近藤家の六代の次男であった喜六さんはどうせ次男だから家は告げないしっていうことで幼くして大阪に丁稚奉公に行かれます。日野郡誌では14歳くらいの書き方がしてありましたが、私の頭が定かではありません。そして勤勉、質性剛直にして商売は大成功し、巨万の富を得たとあります。すごいです。私は爪の垢をせんじて飲まないといけません。
事業成功の後、ふるさとの交通の便の悪さを嘆き日野川を利用し根雨、車尾間に川船を運行するを企て私費16000円を持って明治16年起工17年9月に開業、それより19年9月に至る間、下り荷4000個、登り荷2000個を運送した。しかし9月25日に大洪水に会い舟、事務所一切を流出しかろうじて身は逃れたけれどこれがため病を患いよく20年死去とあります。
すさまじい人生です。やはり断固として私は爪の垢をせんじて呑まねばなりません。
しかし、上近藤家はこの喜六さんを最後にしばらく記録からなくなります。60年後に突然また近藤喜六さんが古文書に登場するようですがこの人はどうやら最初の近藤喜六さんとは別人のようです。このあたりは不可思議で、おもしろそうでぞくぞくします。
古文書の解読が待たれます。
舟場橋の袂に石破烏取県知事の筆による石碑が建っていますがこれは、舟場、米子線のことをたたえたものだったそうです
さらに権現神社前にも記念碑が建てられています
日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり という喜六自作の句が書いてあります。
この碑は、私が子供の頃権現神社の大木を切り出すときにトラックがぶつかり壊してしまったためセメントで修復してあります。
しかし、日野町誌に載っている写真もセメントで修復されています。
つまり、トラックより以前に真犯人が居るってことです。さて真犯人は誰だったのでしょう。これも面白そうでぞくぞくしますが、、古文書には載っていません