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先日 日野郡のたたら製鉄の歴史を保存するための会合が開かれました。
その会員の中で たたら研究家の友人から頂いた『安綱の伝承』についてのメールを紹介いたします。

先日の会合、ありがとうございました。
そのとき、お話しました、「安綱墓」と言われる画像を送ります。

この墓は、日南町下阿毘縁(しもあびれ)の大原地内にあります。
知人から「大原安綱」の伝承があり、屋敷跡と墓があると聞き、
調査に出かけました。 

現地は山林になっていますが、屋敷があったとされる平地(ひらち)と、
その一角に安綱の墓(添付写真)とされるものがあります。
※墓はとても平安時代のものとは考え難いですが、伝承を残すため
後代の人が造り直した可能性はあります・・・。 

また、安綱屋敷跡のすぐ近くには、「山伏塚」と呼ばれることろがあります。
平安時代の山伏は技術集団であり、鉱山開発、医術、医薬、作刀技術など
その当時のハイテク集団であったようです。
現代まで続いている「刀匠月山(がっさん)」は、出羽(でわ)月山の山伏であったと、
聞いたことがあります。

頭領、「安綱」率いる「山伏集団(その家族)」が当時の大原に住んでいた可能性は、
大です。 業務を分担し、炭を焼くひと、地元の砂鉄から「印賀鋼」を造るひと、
食料を確保するひと・・・。 安綱が名刀を造り、できあがった刀を売り歩くひと、
あるいは注文をとるセールスマンもいたでしょう。

時代が下がるにつれ、作刀は山の中から町(マチ、今の都会)に移った・・・。 
しかし、材料の鋼は、まだ、山の中で小規模に造っていたでしょう。

平安末期に合戦が起こると、刀など武器の需要が高まり、製鉄規模も
次第に大きくなっていったでしょう。 刀など武器を造る集団と、原材料の
鋼・鉄を造る集団は、次第に分離されていったのでは・・・。 

今回は、ここまでです。

(参考として)
本には、安綱が活躍したとされるのは平安時代とあります。
初代は大同頃(806年)といわれ、同銘が数代が続いたとするのが、
正しいと思われます。
有名な「童子切」は、後代の安綱で平安時代の天元頃(980年)の作とする説を
個人的には信じています。

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