古刀銘尽大全を見ていました。

鬼丸の作者の一人とされる大原眞国、その父親の大原安守の名前をやっと、見つけました。

(ノ⌒▽)ノわぁい♪

ついでにこの古書で安綱を見つけました。
天平勝宝元年(749)生まれの弘仁二年(811)没

眞守は延歴十四(796)生まれの貞観三(862)没。

安綱の実子が眞守ではなく、年齢から考えてこの間にもう一人いるようですね。やはり二代目安綱か初代眞守がいるんでしょう。

当然どちらも刀に反りはないとされたころのことです。
これだけ具体的な年号が上がっているということはいったいどうなっているんでしょう。

もしかして、ひょっとしたらこの時代に刀の反りは生まれていたのか!
なんてね。

太平記と平家物語をこうして並べて見て、なんだか違和感を感じていたのです。
季節君は今日一日、のどの奥に何か引っかかったようで、考えていました。
それがやっとわかりました。
平家物語では、髭切、膝丸は筑後の国三笠郡土山に異国からの鉄細工師がおり、その人が作った事になっています。
で、渡辺綱が髭切で鬼の腕を切っています。その腕を渡辺綱のお母さんに化けた鬼が取り返します。

太平記では、同じように鬼の腕を切って、綱のお母さんが腕を取り返します。しかし、その刀は鬼切であり、作ったのは大原安綱になっているのです。


逸話は同じでも、刀が違うのです。これはどういう事なんでしょうか。鬼切という刀に箔を持たせたかったのでしょうか。

さらに紛らわしいのが、新田義貞が鬼切と鬼丸を同時に持っていたこと。どちらか一本にしといてくれたらよかったのに。


図書館で圧倒されそうな辞典の山に埋もれていました。読み切れそうにないので、借りて帰ろうとしたら、辞典類は持ち出し禁止なんだとか。どうしても、ここで読み切るしかないのですね

 

(。ノ_・。)ウッ・・

 

朦朧としながら読み進んでいると『鳥取県郷土誌』に以下のような記事を見つけました。

「大原眞国 眞守の子なる安守の子で、初の名は安房、のちに奥州に住して、名を眞国と改めたといはれる。太平記巻冊二に、鬼丸といふ剣について『義貞斜ならず喜びて、これぞ聞ゆる平氏の家に傳へたる重寶なりと、秘蔵して持れる剣なり。これは奥州宮城郡の府に、三の眞国といふ鍛冶、三年精進清斎して、七重に注連を引き、鍛えたる剣なり。』」

 

わたしの琴線に響くものがあり、太平記を再度探しますと……

 

『太平記』さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。

 

キタ──ヽ(‘’)ノ──!!

って季節君は喜んでしまいましたね。

平家の宝刀であった鬼丸は鬼切とともに新田義貞の所有物になりますが、鬼切は安綱の作。鬼丸は安綱の曾孫眞国の作なのです。だからどちらも、大原鍛冶の当時流行していたデザインであり、名将にありがたがられたんでしょう。名前も眞守の一字を取っています。でも、眞国は安綱一門の系図には載っていないのが気になります。伯耆から出てしまったからなのでしょうか。さらに追跡調査が必要で、季節君はずぶずぶと深みにはまって行きそうです。

 追伸 鬼丸という刀は数振りあり、確定的ではありません。

 

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