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鳥取県日野町に黒坂という町があります。

1610年に関氏が五万石で転封されてきます。
そこから、日野郡を統治するため城作りが始まったのです。
この城は黒坂の町を見下ろす山頂にあり、戦国時代の山城の空気を感じさせます。
黒坂夏の陣に参戦した関氏は、戦が終わってから帰国し、勝利の宴を開きました。
そのなかで一族の諍いが発生しました。詳しいことはわかりませんが、酔った勢いで争いになることはよくあること。戦帰りの荒れた空気の中での出来事であったのでしょう。
刀は持っているし、さんざん人を斬ってきたのです。
不満があって、飲んだ勢いで大げんか。
危なくって、こんな飲み会には参加したくありません。

その結果として元和四年、関氏は責任を取らされて改易となります。
時は流れて寛永九年。
岡山藩では幼い池田光仲が藩主となりますが、まだ岡山藩を任せるのは重荷だろうと、鳥取藩の池田光政と親戚同士でお国替えになりました。
それまで岡山にいた家臣たちは総入れ替えとなり、鳥取藩に移り住むことになります。
その中に福田氏もいました。
鳥取藩で五番目くらいの名家です。
この福田氏が黒坂支配を命ぜられ、黒坂城に入ってきたのでありました。
こういった歴史背景の中で、そのステージとなった黒坂城。

今回は、その痕跡を見てみます。
うっそうとした森になり、地元の人も知らないところでしたが、ボランティアの皆さんの強力なブラッシュアップによって実像が見えてきました。
そのボランティアと鳥取県埋蔵文化財センターによる見学会の企画で20人ほどの見学者が集まりました。
私も見学者の中の一人です。
黒坂の町から見上げると、今は石垣が綺麗に見えます。


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ボランティアの人たちが何年もかけて木を切って整備されたのです。
すさまじいまでの執念です。
ここが江戸時代に福田氏が築いた陣屋の跡。

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井戸も残っていました。


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さらに、その背後にそびえる山を登っていきます。
関氏が築いたものの内紛によって改易となり、さらに一国一城令により破城となった悲劇の城です。
陣屋あとから距離にして300メートルほど。高低差は50メートルくらいでしょうか。
九十九折れの道を登りながら3回ほど休憩し、もう駄目だと思い始めたころ、急に平坦地に出ました。
この土塁が主郭への入り口。

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最後の防御です。
そして広場。

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主郭には天守が建っていた痕跡が見つかっていません。
つまり、防御陣地だけだったのかもしれないのです。
それでも、両翼には土塁と石垣が築かれていて、何かの基礎になっていたようです。
おそらく、櫓があったのであろうと、鳥取県埋蔵文化財センターの研究者のかたは言っておられました。
崩れた石垣の残骸がそれを物語っています。

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転がっている切り石やぐり石。

お城マニアの人たちも知らないような小さな城跡でした。
でも、五万石といえば結構大きかったはず。
一万石以上が大名でしたからね。
関氏は支配期間が5年とあまりに短かったため、十分な城を作れなかったのでしょう。



鳥取県西部地震の時に救出した古文書があります。
近藤家文書はさいわいにも、鳥取県立公文書館で保存研究がなされています。

その他の古文書は、日野町内の施設で分散保存されています。
保存といっても、衣装箱に入れたままで研究もなされずお粗末な状態です。
そこで日野町としては、町民の手でこの古文書を守ろうという考え方になりました。
長らくそのままになっていたので、きちんと整理してリストを作るという活動が続いています。

今日は、その活動をテレビ局も取材しに来ていました。

カメラを前にして、参加者の中にそこはかと漂う緊張感。
担当者の冒頭のあいさつも、やたらと硬いものになっていて、参加者の失笑を買っておりました。

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私も取材を受ける前に、何とか格好の付くようにと、割り当てられた資料の中から見栄えの良いものを探します。

明治時代の土地台帳。
楷書で書いてあって読みやすそうなのに、ところどころに読めない字が散りばめられていて読み切れない。
地雷が埋まっているようなものです。
これは、見栄えがしないわりに苦労が強いられるという最悪のパターンです。

それではと江戸時代の古そうなものを引っ張り出してみたら、これはあまりに字が崩してあって、何がなんだかわからない。
ひっくり返してもわからない。
逆立ちしてもわからない。
辞書を引こうにもとっかかりすらつかめない。
周りの人に協力していただきながらなんとか読んでみました。

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明和六子 大庄屋 川嶋〇衛門
日野郡黒坂村田畑午流寅改帳
丑七月より 取立庄屋〇 甚六構

自信がありません。〇の部分は私の勉強不足の部分です。
今後頑張って解読するようにします。
昔は西暦がなく、元号も頻繁に変わっていたために年代感覚がつかみにくい。
そこで、午の年とか虎の年とかいう言い方で、何年前カナ?などという年代感覚を掴んでいたのでしょう。
私がよく間違うのが牛と馬。
牛はと書きます。
馬はと書きます。

こうして現物の古文書に当たり、他流試合のようなことをして腕試しをしている今日この頃です。

そういえば、今回は元禄年間の文書を目にしました。
元禄といえば、江戸時代の初期。
犬公方として名高き、五代将軍徳川綱吉の頃の文書です。
かなり古いです。
こうして保存してあれば、大昔の人の書いた資料を読むことができます。
書いた人の息吹を肌で感じます。
人間は年を取ればいなくなってしまいますが、古文書たちは頑張って長生きしてくださいねって思いました。

古文書整理でもたたらのビッグネームが出てきます。

どこの地域にも歴史があります。そして、古文書が残されています。
鳥取県日野町でも、鳥取県西部地震の際に多くの古文書の存在が明らかになり、保護されました。
それから20年。少しづつ古文書の整理が続けられています。

3月27日に季節君もボランティアとして古文書整理を手伝いました。
午前中は公民館で、古文書解読の勉強をし、午後に実際の古文書整理をします。

午前中に「扣』という字を習いました。
「控』の旧字体だそうです。

そして午後の実地で早速この字が出てきました。
右下に「村扣 むらひかえ」とあります。
こうして現場で使うことができるとうれしくなります。
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少しずつ読むこともできるようになって達成感があります。

こんな文書もありました。
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左下の宛先が大庄屋の「近藤平右衛門」になっています。
たたらで巨万の富を気付いた「大近藤」のご当主でした。
村役⇒庄屋⇒中庄屋⇒大庄屋と大きくなります。
大庄屋になった家柄はそんなに多くはありません。
近藤平右衛門は、大近藤の3代目と4代目が名乗っていますが、天保12年は4代目平右衛門です。
11か所の鉄山を経営し、鳥取藩の大庄屋首座となっています。

そんな事を考えながら整理をしていると、「木下万作」あての文書もありました。
日南町阿毘縁の大鉄山師です。

「緒形四郎兵衛」のものもあります。
黒坂の大鉄山師です。


やはり江戸時代の奥日野の行政や経済は、たたらと鉄山師を抜きにして考えられないようでした。

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