トークセッションの中、阿毘縁に付いて思うことを問われ、季節君は木下家と谷中山遺跡の印象を話しました。

しかし、谷中山は笠木であって阿毘縁ではなく、いらぬ恥をかいてしまいました。

('◇')ゞ


木下家が最初に創業したたたら場はどこだったのですかと尋ねたところ、木下家もいろいろあるからよくわからないとのことでした。


じつは「 山分け文書 」という古文書があり、
尼子氏の小林右近から領地を譲り受け
慶長四年(1599年)弐月弐拾六日に木下孫四郎と法橋太郎右衛門、法橋又右衛門の三人で山分けをして操業を開始しています。

 

堤ケ谷境出口そね切頭は雲州境切左の頭は小鉄峠くるひ山のぎんば切是壱分

水槇山川の渡りの小そね切より二松峠の右そね
云々が孫四郎(のちの初代彦兵衛)の領地となっているのですが、季節君は土地勘がないので、この文書がどこを差すのか皆目見当がつかないのです。

今回の座談会で、地元でもはっきりとは伝わっていないのかなあという感じがしました。
それでも有名な木下家の事ですから、調べればどこかの文献で見つかるのでしょう。

 


安綱を語る会

昔、鉄穴山を掘っていた時の道具があると持ってきていただいた物があります。
持ち主はやはり鉄山師の一族の方です。
kuwa


打ち鍬と呼ばれるものだと思うのですが、阿毘縁でもそうであったのかどうかはわかりません。

やはり普通の物よりずっと重く、先が細く長く尖っていて、もろい真砂山を掘りやすいように出来ています。日南町は流石に奥が深く、いろんなものが残されています。

そして阿毘縁振興センターに到着すると夕暮れ。

厳しい日差しもようやく和らいできたようです。

遠くに見える船通山も、ゴジラでも出てきそうなおっかない雲行きになっていました。


遠くに見える山頂が八岐大蛇と天叢雲剣伝説の船通山です。

 senntuuzann

そして講演。
伯耆の国の流通革命 、大原安綱の物語と
紙芝居を二本見ていただいた後、伯耆に残るあちこちの安綱伝説をあーでもない。こーでもないと話し合いました。
役員を含めて20人ほどの参加でした。

 kouennkai

話が盛り上がる中、夜9時を過ぎてもうそろそろ眠くなった季節君です。

 


阿毘縁の安綱伝説

22日に阿毘縁に行きました。

大原山というところで安綱の伝承の残る地です。
山伏が住まいして作刀をしていたと言われています。

まずは鍛冶屋跡と言われるところ。

石柱がいくつかあるらしいのですが、それを探しに道から外れて山の中に踏み込みます。

ガイドなしには絶対にわかりませんね。

ちゃんと草刈りまでしていただいているようで、助かります。

件の石柱は思ったほど大きくはなく、40センチほどでした。
yamabusi


そして、辺りを見回していると、カナクソ発見!
かなくそ

見た感じでは、鍛冶滓のようです。
鍛冶滓は茶色く肌がぶつぶつしていて、鋭角の破断面があまりない。
そんな感じでした。
物証が出たことで、やはりここは鍛冶場だったことに間違いないようです。
(ただし、鍛冶滓だと確定したらの話し)

その下は大きく平地になっていますが、昔は畑だったそうです。
その畑より以前は鍛冶場やたたら場だったかもしれません。
その脇に深くえぐられた井手の跡があり、水利もあったようです。

さらに100メートルほど行くと、山伏塚があるのですが、今回は草が深く入ってゆくことができませんでした。
聞くところによると、40センチほどの男根の形をしているそうです。
地名も大原山 山伏塚ということになっています。
ここらあたりが日本刀発祥の地だと言う説もあり、たしかにそれらしいものもあるのですが、刀鍛冶の存在を確定はできません。

ぢゃ、何があれば刀鍛冶跡と呼べるのか。
平安期の金床とか、折れた刀とか、童子切の発注書とか、坂上田村麻呂のサイン帳とか、何でもいいんですけれどねえ。
しかし、その匂いはぷんぷんと感じるのでありました。

そして深迫というところで鉄穴流しの跡を見学しました。
残っている写真では、ふんどし姿の職人が数人、山を削っているのですが、現在は流した砂によって平地ができ、田圃になっていました。
周りの山は樹木が生えていますが、高さはとても低く削られていて、丘と呼べるくらいになっています。
kannna

さて、陽が落ちて涼しくなってきたので、阿毘縁振興センターで座談会をしましょう。

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