古文書解読講座2

奥日野のたたらの歴史を顕彰しなさいと言う某所からの指令によりたたら勉強を始めた季節君でしたが、いつの間にかミイラ取りがミイラになってしまいました。
めっきり歴史好きになってしまった季節君はあれこれとチャレンジしています。

年末には、童子切が保管してあったというこんなところに行ったり、(津山城)
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また、春にはこんなところにも行きました。(国宝姫路城)
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そして、3月25日には古文書講座第2回が開催されます。
今回は宿題が出されていて、解読しなければなりません。

読めない漢字が多い中を、崩し字辞典をめくりあーでもない、こーでもないと頭を悩ませます。
しかし、なせば成るもので、最初の3行くらいを読むと後はだんだんと読めるようになるものですな~
(-。-)y-゜゜゜

余裕をぶっこいていて後で痛い目に会うのですが、この時は知る由もなく……

何とか宿題を終えて、本日を迎えました。

講習会では、前半をSさんが読みます。
さらさらと読み下して流石であります。
先生の解説を聞きながら、納得しておりました。

外は白梅が満開で、春爛漫でありました。

さて、後半は誰に……
「ぢゃ、後半は季節君お願いします」

ドキッ∑( ̄Д ̄ll)

つっかえつっかえ何とか読み下しましたが、汗びっしょり。
やっててよかった、予習復習。
解説で手厳しくやっつけられてしまいました。

調子乗っちゃって。
次の宿題でまた、頑張りましょう。




たたらフォーラム2018

3月11日。
たたらフォーラム2018が開催されました。

日南町の文化ホールに早めに到着し、会場の準備をします。
さて、資料や席はどのくらい用意しましょうか。

とりあえず130もあればいいのかなと、その時は安易に思っていました。

資料をテーブルに並べ、一枚づつ取って行って、最後にホッチキスで閉じます。

人海戦術でやるのですが、学生時代はこれを「田植え」と称して論文発表の前などには、やったのを懐かしく思い出しました。


そして、講演者控室に暖房を入れ用意をしていると、次々と先生がおいでになり、にぎやかになります。

先生方は私のような素人の話も聞いてくださり、いちいちお答えを頂く。季節君の最も充実した時間であります。日南町、日野町の町長さん。鳥取県日野振興センターの所長さんもおいでになりました。
時間が迫ってきたので先生方を会場にお連れすると、配乗は満員状態。スタッフさんが補助席を持って右往左往しておられます。後ろにはカメラが並んでいて、びっくりしました。150人は超えたのかな。
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最初のご講演は元鳥取県公文書館の坂本先生。
鳥取藩の公文書から、鉄山の様子を教えていただきました。
何せ、膨大な量の公文書なので調査は困難を極めたそうです。今は鳥取県立公文書館のHPから閲覧もできるそうです。御手山(藩の直営にすることね)にしたところ、反対もあってとん挫したこと。年貢の取り立て方、大阪鉄座の取り扱い。境港鉄山融通会所の設立などについて教えていただきました。

加地先生には木下家について。
日南の鉄山師については資料が少なく、今まで講演のテーマになったことはありませんでした。木下家さんは大木下、西木下、中木下などあって私も詳しくわからないのですが、その様子を教えていただきました。
一門が助け合う様子を記した文書についても教えていただき、なるほどと思うことが多くありました。
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角田先生には砺波の遺跡のついての最終報告。
8年前に砺波高殿の発掘にはじまり、二年前には裏山に広がる選鉱場や切羽や走り。今年は井手から堤、その水の取水などについて報告いただき、砺波の全容が見えました.
水利のない山の中で、水を無駄なく使うため、いくつもの堤が作られていたようです。鉄山必要記事にも、水を使わない夜は堰を止めておいて、堤に水を貯め、昼にそれを使って作業をするということが書かれています。まさにその実態を反映したものでした。

それから、伯耆で作られたと伝わる日本刀をお持ちの方がおいでになり、参考までにと展示してくださいました。
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伯耆の古鍛冶「大原一門」については4月の7日、8日に「伝説の刀工 安綱を語ろう」という会を開きます。
7日の午後1:30から日野町根雨たたらの楽校で、8日は日南町大宮たたらの楽校で開催します。
大原安綱の紙芝居。
とーくせっしょん。
地元の刀剣展示。
資料の複製展示。
を予定しています。
季節君もそれまでに安綱を勉強しようとは思っていますが、どうなりますやら。

さて、こんどは延慶本です。

この本も、平家物語なので、大変長いです。

ひらがな書で全12巻3500ページを越えます。

もうすでに活字になった本もあるので、何とかなりそうに思ったのですが、豈はからんや。
暇を見つけて読み進んでようやく見つけました。
以下に現代訳を書いてみますが、役職などで書かれた部分を人名に書き変えていますので、ご注意ください。

平家嫡嫡相伝して、抜丸という太刀があった。秘蔵の太刀であったのを、「頼盛に取らせばや」と正室(宗子)がしきりに申されたので、忠盛様がこの太刀を相伝されたのを、清盛は納得がいかなかった(清盛は正室の子ではない)。かの太刀は、忠盛の父正盛が夏のある日、この太刀を枕にたてて昼寝をしていたところ、ほかの人が見ていたことによれば、小きとかげの尾の青かりけるが、さらさらと腹這って、正盛の寝ている方へ向いて腹這って行けば、枕に立てたる太刀、人が抜いたわけでもないのに、半分ほど、さらと抜けたのを見て、このトカゲは恐れたようすで、やがて帰ってしまった。さて不思議の思いをして、正盛が寝ているのを起こして、「しかしか」と伝えたところ、誠に太刀が半分ほど抜け掛かっていたのであった。不思議な事である。それ以来、この太刀を抜丸と名付けて秘蔵されていた。清盛はこの大刀を所望したけれど、頼盛がお思いになったのは、「名高き大刀なるを、ありがたくして伝へたる上、平治の合戦のとき、悪源田吉平が郎従、鎌田正清の熊手にかけられて、危うく討たれそうになったのを、この大刀を持っていたからこそ、熊手の鎖を後ろさまにたやすく切り落として、命を助かっただけではなく、名を後代に残すことができた。この大刀がなかったならば、今まで永らえる事はできなかったであろう。そのうえ大殿(清盛のことね)嫡嫡のあとをつぎて、このほかの当家相伝の物の具といひ、財宝といひ、その数多く伝えて持っていらっしゃる。私は弟なので、世の重宝刀ひとつも相伝せずして、わずかにこの太刀ひとつばかりなり」とおっしゃって、再三所望があったけれど、ついに差し上げることはなくてお持ちになっていたので、甥の宗盛との仲も、よくなかったと聞いている。


どの本も同じように書かれているようで微妙に違います。
源平盛衰記では木枯と呼ばれていたころについて書かれていますし、平治物語では抜丸は大原真守の作だと書かれています。
この延慶本では、母の宗子が頼盛に太刀を与えようとしたこと。それによって、清盛との兄弟関係、甥の宗盛との関係も悪くなったことがわかります。

清盛の母は、早くに亡くなっているので正室の宗子は実子の頼盛をかわいがったのです。

この後、1181年、清盛は病死します。
宗盛は頼盛を置いてけぼりにしてさっさと都落ちをします。
しかし、宗盛は源平の合戦で捕えられ打ち首となります。
頼盛は源平の合戦に参加しなかったため、永らえますが、仏門に出家します。
おそらく、その後に抜丸は鎌倉府に置かれ、一時室町幕府にもあったらしいです。
しかし、室町時代に盗難にあい、いまだもって行方が知れません。

こうしてみると、抜丸は平家の宝刀であり、頼盛と清盛、宗盛を仲たがいさせるほどの宝物であったことになります。しかし、平家は滅んでしまったために抜丸は軽んぜられてしまったのでしょうか。

いっぽうの源氏の宝刀は鬼切。安綱の作であると太平記に書かれています。源満仲のころに有った刀は頼朝に受け継がれますが、平家に敗れた源氏は一掃されるかと思われました。ここで清盛は頼朝、義経の命を助けます。この甘さが命取りになって逆に平家が滅ぼされてしまうとは、歴史のおそろしいところです。そして、鬼切は源氏の宝刀として大事にされ世に残ります。源氏亡き後、斯波高経と足利尊氏との鬼切を巡る奪い合いで戦にまでなってしまうと太平記には記されています。

どちらの太刀も伯耆の太刀で、日本の歴史を変えてしまうほどの力を持っていたことを世間は知りません。
(-。-)y-゜゜゜ ふっふっふ

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