たたらフォーラム2018

3月11日。
たたらフォーラム2018が開催されました。

日南町の文化ホールに早めに到着し、会場の準備をします。
さて、資料や席はどのくらい用意しましょうか。

とりあえず130もあればいいのかなと、その時は安易に思っていました。

資料をテーブルに並べ、一枚づつ取って行って、最後にホッチキスで閉じます。

人海戦術でやるのですが、学生時代はこれを「田植え」と称して論文発表の前などには、やったのを懐かしく思い出しました。


そして、講演者控室に暖房を入れ用意をしていると、次々と先生がおいでになり、にぎやかになります。

先生方は私のような素人の話も聞いてくださり、いちいちお答えを頂く。季節君の最も充実した時間であります。日南町、日野町の町長さん。鳥取県日野振興センターの所長さんもおいでになりました。
時間が迫ってきたので先生方を会場にお連れすると、配乗は満員状態。スタッフさんが補助席を持って右往左往しておられます。後ろにはカメラが並んでいて、びっくりしました。150人は超えたのかな。
kaijyou


最初のご講演は元鳥取県公文書館の坂本先生。
鳥取藩の公文書から、鉄山の様子を教えていただきました。
何せ、膨大な量の公文書なので調査は困難を極めたそうです。今は鳥取県立公文書館のHPから閲覧もできるそうです。御手山(藩の直営にすることね)にしたところ、反対もあってとん挫したこと。年貢の取り立て方、大阪鉄座の取り扱い。境港鉄山融通会所の設立などについて教えていただきました。

加地先生には木下家について。
日南の鉄山師については資料が少なく、今まで講演のテーマになったことはありませんでした。木下家さんは大木下、西木下、中木下などあって私も詳しくわからないのですが、その様子を教えていただきました。
一門が助け合う様子を記した文書についても教えていただき、なるほどと思うことが多くありました。
kinosita

角田先生には砺波の遺跡のついての最終報告。
8年前に砺波高殿の発掘にはじまり、二年前には裏山に広がる選鉱場や切羽や走り。今年は井手から堤、その水の取水などについて報告いただき、砺波の全容が見えました.
水利のない山の中で、水を無駄なく使うため、いくつもの堤が作られていたようです。鉄山必要記事にも、水を使わない夜は堰を止めておいて、堤に水を貯め、昼にそれを使って作業をするということが書かれています。まさにその実態を反映したものでした。

それから、伯耆で作られたと伝わる日本刀をお持ちの方がおいでになり、参考までにと展示してくださいました。
sanemori

伯耆の古鍛冶「大原一門」については4月の7日、8日に「伝説の刀工 安綱を語ろう」という会を開きます。
7日の午後1:30から日野町根雨たたらの楽校で、8日は日南町大宮たたらの楽校で開催します。
大原安綱の紙芝居。
とーくせっしょん。
地元の刀剣展示。
資料の複製展示。
を予定しています。
季節君もそれまでに安綱を勉強しようとは思っていますが、どうなりますやら。

さて、こんどは延慶本です。

この本も、平家物語なので、大変長いです。

ひらがな書で全12巻3500ページを越えます。

もうすでに活字になった本もあるので、何とかなりそうに思ったのですが、豈はからんや。
暇を見つけて読み進んでようやく見つけました。
以下に現代訳を書いてみますが、役職などで書かれた部分を人名に書き変えていますので、ご注意ください。

平家嫡嫡相伝して、抜丸という太刀があった。秘蔵の太刀であったのを、「頼盛に取らせばや」と正室(宗子)がしきりに申されたので、忠盛様がこの太刀を相伝されたのを、清盛は納得がいかなかった(清盛は正室の子ではない)。かの太刀は、忠盛の父正盛が夏のある日、この太刀を枕にたてて昼寝をしていたところ、ほかの人が見ていたことによれば、小きとかげの尾の青かりけるが、さらさらと腹這って、正盛の寝ている方へ向いて腹這って行けば、枕に立てたる太刀、人が抜いたわけでもないのに、半分ほど、さらと抜けたのを見て、このトカゲは恐れたようすで、やがて帰ってしまった。さて不思議の思いをして、正盛が寝ているのを起こして、「しかしか」と伝えたところ、誠に太刀が半分ほど抜け掛かっていたのであった。不思議な事である。それ以来、この太刀を抜丸と名付けて秘蔵されていた。清盛はこの大刀を所望したけれど、頼盛がお思いになったのは、「名高き大刀なるを、ありがたくして伝へたる上、平治の合戦のとき、悪源田吉平が郎従、鎌田正清の熊手にかけられて、危うく討たれそうになったのを、この大刀を持っていたからこそ、熊手の鎖を後ろさまにたやすく切り落として、命を助かっただけではなく、名を後代に残すことができた。この大刀がなかったならば、今まで永らえる事はできなかったであろう。そのうえ大殿(清盛のことね)嫡嫡のあとをつぎて、このほかの当家相伝の物の具といひ、財宝といひ、その数多く伝えて持っていらっしゃる。私は弟なので、世の重宝刀ひとつも相伝せずして、わずかにこの太刀ひとつばかりなり」とおっしゃって、再三所望があったけれど、ついに差し上げることはなくてお持ちになっていたので、甥の宗盛との仲も、よくなかったと聞いている。


どの本も同じように書かれているようで微妙に違います。
源平盛衰記では木枯と呼ばれていたころについて書かれていますし、平治物語では抜丸は大原真守の作だと書かれています。
この延慶本では、母の宗子が頼盛に太刀を与えようとしたこと。それによって、清盛との兄弟関係、甥の宗盛との関係も悪くなったことがわかります。

清盛の母は、早くに亡くなっているので正室の宗子は実子の頼盛をかわいがったのです。

この後、1181年、清盛は病死します。
宗盛は頼盛を置いてけぼりにしてさっさと都落ちをします。
しかし、宗盛は源平の合戦で捕えられ打ち首となります。
頼盛は源平の合戦に参加しなかったため、永らえますが、仏門に出家します。
おそらく、その後に抜丸は鎌倉府に置かれ、一時室町幕府にもあったらしいです。
しかし、室町時代に盗難にあい、いまだもって行方が知れません。

こうしてみると、抜丸は平家の宝刀であり、頼盛と清盛、宗盛を仲たがいさせるほどの宝物であったことになります。しかし、平家は滅んでしまったために抜丸は軽んぜられてしまったのでしょうか。

いっぽうの源氏の宝刀は鬼切。安綱の作であると太平記に書かれています。源満仲のころに有った刀は頼朝に受け継がれますが、平家に敗れた源氏は一掃されるかと思われました。ここで清盛は頼朝、義経の命を助けます。この甘さが命取りになって逆に平家が滅ぼされてしまうとは、歴史のおそろしいところです。そして、鬼切は源氏の宝刀として大事にされ世に残ります。源氏亡き後、斯波高経と足利尊氏との鬼切を巡る奪い合いで戦にまでなってしまうと太平記には記されています。

どちらの太刀も伯耆の太刀で、日本の歴史を変えてしまうほどの力を持っていたことを世間は知りません。
(-。-)y-゜゜゜ ふっふっふ

ども、皆さんご無沙汰です。

日南町でのたたら講演会(3月11日)の準備もあって、忙しいのです。
が、実はわたくし、秘かに地下に潜って調査を進めておりました。


というのは、伯耆の古鍛冶である大原鍛冶は安綱さんばかりが有名になってしまって、判官びいきの季節君としては面白くないのです。

巨人より阪神。キリンよりアサヒよりサッポロ。メルセデスより本田(買う金がないだけの事)


ということで大原真守を贔屓しようと企んでいるのでございます。
大原真守の宝刀と言えば、幾つか現物も存在していて重文などになっているのですが、なんといっても伝説の宝刀
抜丸
でござんす。

そこで抜丸についての古文書を探しておりました。
鎌倉時代の古今東西の名刀を記した「銘尽」にも安徳子 平家のぬけまる と書かれております。

平家物語の類似本のひとつである源平盛衰記を訳してみました。

猟師が一振りの剣を持って猟をしていた。ある夜、鹿を得て大木の下で泊まった。朝になってみると大木は古木の様になって枯れていた。これは神剣であろうと、木枯らしと名付けた。平忠盛はこの剣をご覧になって、この国では得難い剣だと年貢三千石で交換された。その後、忠盛は六波羅の池殿の山庄にて昼寝して前後不覚に陥っておられたが、この木枯を枕元に立てかけておかれた。大蛇が池から出て忠盛を呑もうとする。木枯は鞘から抜き出て鐔を蛇に向けた。蛇は剣を恐れて池に沈む。太刀が倒れたのは主を起こそうとしてであり、鞘から抜け出たのは主を守って大蛇を斬ろうとしたのである。平治の合戦で頼盛が熊手で掛けられたときにも、この太刀で鎖を斬っている。このように目出度い太刀なので嫡男に伝わるべきなのを頼盛に伝えられたので清盛と仲が悪かったが、よく説明して唐皮小烏は平家重代の宝なので、必ず六代に伝えなさいとおっしゃった。


平家物語の異訳本は腐るほどあります。
平治物語、源平盛衰記、太平記、覚一本、米沢本、京師本、流布本、南部本などなど。

平治物語ではこうなっています。(季節君訳)

熊手の柄を手本二尺ほどを切って落とされたので八町次郎は急に倒れて転んでしまった。。京の童がこれを見て、「立派な太刀だ。あきれてしまう。三河殿もよく切ったものだ。八町次郎もよく掛けたものだ。」と驚いた。頼盛は冑に熊手を掛けたままで、振り落としませず、振り返りもしない、三条を東へ、高倉を下り、五条を東へ、六波羅まで、からめかして落られたのは、なかなか立派に見えた。名誉の抜丸なれば、よく切れるのはもっともである。 此太刀を抜丸と呼ぶいわれは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしていらっしゃったところに、池より大蛇が出てきて、忠盛を呑もうとする。此太刀まくらの上に立ったが、自らするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池に沈む。太刀も鞘に帰ったならば、蛇又出て呑もうとする。太刀又ぬけて大蛇を追て、池の汀に立った。忠盛是をご覧になって、抜丸と名を付けられた。忠盛様の正室のお子であったので、頼盛是を相伝されたところ、清盛と仲が悪くなったと伝えられている。伯耆国大原の眞守が作と云々。

 



そして、ほかにもあるはずだぞと長らく地下に潜伏して調査をしていて、本日ついに違う資料を見つけてしまいました。延慶本でございます。読めば何という事はないのですが、季節君はそれなりに達成感が有りましたので、ここにご報告申し上げます。原文の現代語訳も終わりましたが、本日の報告はながくなったので教えてあげません。続きはまた明日




このページのトップヘ

見出し画像
×