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根雨神社のことを祇園神社といいます。
根雨の町を望む高台にこの神社はあります。
夏でも涼しい林の中を石段を登ってゆくとやしろがあります。その社の後ろには大きな四角い岩があり、しめ縄が飾って有ります。今は夏草が生い茂って藪になっていますが確かにあります。
写真にとって、HPに公開するとばちが当たりそうなのでやめときます。
こうみえても(どう見えてんだか?)季節君は臆病者なのです。
写真に神様が写っていたら大変ですもの。
この岩ノ前で雨乞いをしたら甘露のような雨が降り始め、根潤うから根雨の町の名前が付いたことは以前お話しました。
社はこんなかんじです。
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小さい丘の上に建ってるので大きなものは建てられなかったようです。でも作りこんであって材料もすごく上質なものが使われているそうです。
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こういうのって宮大工が特殊な技術で作るんですってね。

ここで根雨の町の初詣風景を紹介します。
私は12月31日の夜、11:50分に家族を連れて家を出てお宮に参ります。
雪の降る中を石段を静々と登ってゆくと、12:00新年です。太鼓の音が鳴り響きお正月の初詣が始まるのです。水引にお賽銭を包み、今年はいい年でありますように、そんでもって商売繁盛で、家族は元気で、娘は大学に合格して、、、あまり沢山お願いすると神様もお困りになりそうなので、気を使ってこんくらいにしておきます。
お神酒を頂いて、お宮をぐるっと一周して小さい祠にもお賽銭をして家まで帰ります。
このあいだにおしゃべりをすると福が逃げると昔からの言い伝えで黙ってうちの玄関まで帰ります。知り合いが居てもこの日は無視していいんです。時間も節約できてずいぶん助かります。
家の玄関をくぐると子供たちが大きな声で おめでとうございます!といいます。これは 私にはお年玉の催促に聞こえるのでありました。
私が子供のころも母に手を引かれて同じように初詣のお参りをしました。
この行事は子供たちのお年玉の催促のためにもなくしてはならない行事です。
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神社から帰ろうと階段を見下ろすと小市民の自転車がじっと主人の帰りを待っていました。忠犬ハチ公のようです。
でも自転車は普通、持っていかれない限りじっとそこで待ってるんですけれどね。ちなみに自転車に乗ったら、日に炙られたサドルがかなり熱くてお尻が大変でした。
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祇園の杜を対岸から眺めた様子です。
大鳥居にも近藤喜八郎の文字が彫ってありました。昔は毎年の神社の飾りつけも近藤さんが手代の皆さんを従えてやられたんだそうです。手代さんといっても御本家に10人、山内(支店工場)に50人、大阪支店に10人と居られたそうですので幹部の方がされたんでしょうね。根雨楽舎には人員配置などを描いた絵図があります。ぜひおいでください。
面白ガイド30分付いて今なら無料です。たぶん、しばらく無料です。

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根雨の町には綺麗な橋があります。古くなって痛みが激しかったのですが町の手でお化粧直しされて立派に見えます
名前を祗園橋といいます
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子供の頃は何の違和感もなかったのですが、私が成長して世間を知るようになってから不思議におもうようになりました。
そうです。祇園といえば京都の由緒正しい観光地です。綺麗な芸者のおねえさんがいたり、私たちには入れないような高級料亭があったりというイメージがあります。
でも、根雨の祗園橋の袂には灯篭があり,ちゃんと「祗園橋」の名前もあります。
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だからこっちこそ本物なんだかんな。なめんなよ。とも思います。

さっそく由緒を調べてみなした。

むかし長谷部信連というひとが京都にいました。
治承四年五月源頼政以仁王の令旨により兵を挙げて事ならず、以仁王の籠臣長谷部信連捕らえられて日野郡金持に流詰せらるる

謀反を起こそうとして失敗した罪で京都から日野に流されてしまったのです。
日野に居るあいだ、京都の町を懐かしんで町中を流れる板井原川を京の加茂川に見立てて根雨神社を祇園神社と呼び橋を祗園橋と呼んだ。さらに三谷神社を王子権現、お寺を延暦寺としたそうです。
勝手に名前をまねるくらいなら、高級料亭や芸子さんもお願いしますと私は強く言いたいです!

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根雨の鴨川はこのような清流です。川岸で宴を作り、天然鮎料理でもてなしたら京都みたいでいい感じなんでしょうね。芸子さんも、、
飲兵衛の私はすぐそういった世俗的な方向に流されてしまっていけません。

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根雨から出ていた舟について2つの航路を書きました。
そして今回はもうひとつの航路、根雨→米子市車尾舟に付いて書きます。
これは有名なお話なので地元の方も多く知っておいでだと思います。
頃は明治10年頃、事業を行ったのは喜西近藤喜六というひとでした。
今の近藤ご本家さんはじつは上近藤家の分家さんであったのです。で、上近藤家こそが根雨にいらっしゃったもともとの本家筋に当たります。(元祖近藤家などということもあるようです)ややこしいのですがそれが史実なのであります。

で、上近藤家の六代の次男であった喜六さんはどうせ次男だから家は告げないしっていうことで幼くして大阪に丁稚奉公に行かれます。日野郡誌では14歳くらいの書き方がしてありましたが、私の頭が定かではありません。そして勤勉、質性剛直にして商売は大成功し、巨万の富を得たとあります。すごいです。私は爪の垢をせんじて飲まないといけません。

事業成功の後、ふるさとの交通の便の悪さを嘆き日野川を利用し根雨、車尾間に川船を運行するを企て私費16000円を持って明治16年起工17年9月に開業、それより19年9月に至る間、下り荷4000個、登り荷2000個を運送した。しかし9月25日に大洪水に会い舟、事務所一切を流出しかろうじて身は逃れたけれどこれがため病を患いよく20年死去とあります。
すさまじい人生です。やはり断固として私は爪の垢をせんじて呑まねばなりません。

しかし、上近藤家はこの喜六さんを最後にしばらく記録からなくなります。60年後に突然また近藤喜六さんが古文書に登場するようですがこの人はどうやら最初の近藤喜六さんとは別人のようです。このあたりは不可思議で、おもしろそうでぞくぞくします。
古文書の解読が待たれます。

舟場橋の袂に石破烏取県知事の筆による石碑が建っていますがこれは、舟場、米子線のことをたたえたものだったそうです

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さらに権現神社前にも記念碑が建てられています
日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり という喜六自作の句が書いてあります。
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この碑は、私が子供の頃権現神社の大木を切り出すときにトラックがぶつかり壊してしまったためセメントで修復してあります。

しかし、日野町誌に載っている写真もセメントで修復されています。

つまり、トラックより以前に真犯人が居るってことです。さて真犯人は誰だったのでしょう。これも面白そうでぞくぞくしますが、、古文書には載っていません


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