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根雨の町には綺麗な橋があります。古くなって痛みが激しかったのですが町の手でお化粧直しされて立派に見えます
名前を祗園橋といいます
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子供の頃は何の違和感もなかったのですが、私が成長して世間を知るようになってから不思議におもうようになりました。
そうです。祇園といえば京都の由緒正しい観光地です。綺麗な芸者のおねえさんがいたり、私たちには入れないような高級料亭があったりというイメージがあります。
でも、根雨の祗園橋の袂には灯篭があり,ちゃんと「祗園橋」の名前もあります。
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だからこっちこそ本物なんだかんな。なめんなよ。とも思います。

さっそく由緒を調べてみなした。

むかし長谷部信連というひとが京都にいました。
治承四年五月源頼政以仁王の令旨により兵を挙げて事ならず、以仁王の籠臣長谷部信連捕らえられて日野郡金持に流詰せらるる

謀反を起こそうとして失敗した罪で京都から日野に流されてしまったのです。
日野に居るあいだ、京都の町を懐かしんで町中を流れる板井原川を京の加茂川に見立てて根雨神社を祇園神社と呼び橋を祗園橋と呼んだ。さらに三谷神社を王子権現、お寺を延暦寺としたそうです。
勝手に名前をまねるくらいなら、高級料亭や芸子さんもお願いしますと私は強く言いたいです!

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根雨の鴨川はこのような清流です。川岸で宴を作り、天然鮎料理でもてなしたら京都みたいでいい感じなんでしょうね。芸子さんも、、
飲兵衛の私はすぐそういった世俗的な方向に流されてしまっていけません。

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根雨から出ていた舟について2つの航路を書きました。
そして今回はもうひとつの航路、根雨→米子市車尾舟に付いて書きます。
これは有名なお話なので地元の方も多く知っておいでだと思います。
頃は明治10年頃、事業を行ったのは喜西近藤喜六というひとでした。
今の近藤ご本家さんはじつは上近藤家の分家さんであったのです。で、上近藤家こそが根雨にいらっしゃったもともとの本家筋に当たります。(元祖近藤家などということもあるようです)ややこしいのですがそれが史実なのであります。

で、上近藤家の六代の次男であった喜六さんはどうせ次男だから家は告げないしっていうことで幼くして大阪に丁稚奉公に行かれます。日野郡誌では14歳くらいの書き方がしてありましたが、私の頭が定かではありません。そして勤勉、質性剛直にして商売は大成功し、巨万の富を得たとあります。すごいです。私は爪の垢をせんじて飲まないといけません。

事業成功の後、ふるさとの交通の便の悪さを嘆き日野川を利用し根雨、車尾間に川船を運行するを企て私費16000円を持って明治16年起工17年9月に開業、それより19年9月に至る間、下り荷4000個、登り荷2000個を運送した。しかし9月25日に大洪水に会い舟、事務所一切を流出しかろうじて身は逃れたけれどこれがため病を患いよく20年死去とあります。
すさまじい人生です。やはり断固として私は爪の垢をせんじて呑まねばなりません。

しかし、上近藤家はこの喜六さんを最後にしばらく記録からなくなります。60年後に突然また近藤喜六さんが古文書に登場するようですがこの人はどうやら最初の近藤喜六さんとは別人のようです。このあたりは不可思議で、おもしろそうでぞくぞくします。
古文書の解読が待たれます。

舟場橋の袂に石破烏取県知事の筆による石碑が建っていますがこれは、舟場、米子線のことをたたえたものだったそうです

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さらに権現神社前にも記念碑が建てられています
日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり という喜六自作の句が書いてあります。
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この碑は、私が子供の頃権現神社の大木を切り出すときにトラックがぶつかり壊してしまったためセメントで修復してあります。

しかし、日野町誌に載っている写真もセメントで修復されています。

つまり、トラックより以前に真犯人が居るってことです。さて真犯人は誰だったのでしょう。これも面白そうでぞくぞくしますが、、古文書には載っていません


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日野町図書館に行きました。
根雨に港があったとの情報を入手し、調査に向かったのでありました。
日野郡誌を探すんですがわかりません。いくら探しても発見できません。
あら、松本薫の「梨の花」があったわ!とか、たたら関係の本って意外とおおいなとか、、、へ~~~、、、ち、ちがうんです。探しているのは日野郡誌なんです。
この時点ですでに挫折しそうであります。本の山を見上げて迷子になってる私を見かねて書士のおねえさんが声を掛けてくれました。
「日野郡誌を探してるんですがわからなくってね」というと、カギのかかっているロッカーを開けてくれました。なるほど、二度と手に入らないような貴重な資料はカギがかかってるのですね。
で、根雨の港について調べてみると、、、ありました。
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当事の日野郡はずいぶん交通の便が悪くて苦労されたようです。そこで、、、
天保の末年緒方四郎兵衛氏の考案にて日野川の内矢戸根雨六里のところ川路を修理し川舟を通わせ砂鉄等を運搬せしめ鉱業の便利を図るを目的として、、、

やってみたんだけれど、最初はうまくいったのね。でも川が増水するたびに水路が壊れ修理をしなくちゃなんないので、やめちゃいました。
今となっては根雨神社の後ろに湊河原といへる名を止むるのみなり
ということでした。
ちなみに緒方さんというのは日野町黒坂の大鉄山師で国宝の巻物3巻を神社仏閣に寄付されたりもしています。

湊河原という地名を探して根雨の町を歩いているとこんなものがありました。
お暇な方はさがして見てください。案外難しいかもね。
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今は湊のあった辺りはこんな感じです。
ちなみに湊は舟の集まる場所という意味、船着場はなく舟を岸に乗り上げる場所といった漢字だそうです。。港は新しい漢字で船着場のあるところのようです。
鉄橋の左岸にはこのあたりでは有名なおしどり観察小屋があります。
鉄橋が走り(鉄橋は走りません!走るのは電車です)おしどり観察小屋ができるなんて当事の緒方さんは思っても見なかったでしょうね。
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おしどり観察小屋については冬のシーズンに紹介しようと思います。
おいしいうどんやさんや資料館のケーキが美味しかったり(夏も開店しています)なかなか楽しいスポットです。

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