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今日は鳥取県西部地震から10周年の記念フォーラムでした。
(*゚▽゚)/゚・:**:・゚\(゚▽゚*)
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といっていられるのも、家屋の被害は大きかったものの死亡されたかたもなく、しかも、家屋の復興には助成制度が設けられていたためであります。

私は、今後の10年というテーマで、人口減少にさらされた日野町を今度はどう活性化すればいいでしょうという難しいテーマでのパネラーでした。
出席していた人は現役高校生を含めかなり優秀な人たちばかりで、私はかなり気後れしていました。
ステージ脇で控えていると、今わだいの片山総務大臣がしゃべっています。内容は、、、、!!!な、な、なんと   鳥取県西部というと、今はたたら製鉄のお話が盛り上がっていますね、、的なお話でした。音響の裏側にいたので内容がはっきり聞き取れませんでしたが、片山総務大臣にまでわれわれの活動が聞こえているとすればこれはたいしたもんです。

一気にボルテージが上がり、たたらの宣伝しまくりの私のトークでした。

そして、ステージでのお話が終わり天下のNHKさんがインタビューにきます。このNHKさんのお話が抽象的で本日一番難しかったです。しどろもどろで、ありきたりの優等生の発言をした私ですがいまひとつ本音でお話できなかったのが心残りでした。
ぶっつけ本番は苦手だぞ (ーー;) の季節君でした。

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根雨の町は、昔江戸時代にはたたらで繁栄するとともに、交通の要所ともなりました。
日野川を渡る舟渡しが出来たり、宿場があったりしました。
そして、松江藩主 松平公が参勤交代で江戸にお出かけになるときは必ず根雨の宿場で宿泊されました。そのため米子から二部をとおり根雨に来る道を出雲街道と呼びました。
現在ならさしずめ、東京を結ぶ高速道路といったところでしょうか。でも大名行列には交通渋滞は無かったと思います(笑)。

根雨宿では、はじめ多里から根雨に移り住んだ資産家の緒方家が殿様の宿となりました。その後、梅林家が本陣になります。
そして時代が移り梅林家は大阪に出て行かれます。
そのとき、紳士協定で本陣の門を預けておくからね。と言われて先代の根雨神社の神主さんが本陣の門を受け取られたのだそうです。
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紳士協定の意味が良く分かりませんが今でも梅林家の玄関に本陣の門はしっかりと建っています。
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風情があって、おうちともマッチしていいところに預けられたなって思います。
万が一、季節君のうちにでも預けられていたなら、とんでもないことになっていたでしょう。      きっと。。。。。。

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世界でも類を見ない優秀な日本のハガネ。その製法である日本のたたら製鉄を世界に知らせたいとの思いから明治30年代初めにたたら製鉄を調査しドイツで発表された東京帝国大学の製鉄の権威に俵国一博士がおられます。その論文の元になったたたら製鉄の調査地は伯耆の国 都合谷と砺波でありました。

都合谷は近藤家の製鉄現場でありましたが、調査されたのは夏。炉の火入れ(鉄生産)はされていない状態でした。しかし、都合谷は大鍛冶を備えた大型工場でしたので、鍛冶場での作業工程などを詳しく確認されたようです。鍛冶場では炭素量の多い鉄などを鍛えなおして錬鉄(炭素量の低い鉄)にし、延べ棒にして製品化したりという工程が行われます。都合谷の施設の図面なども俵博士によって詳しく測量されたものが残っています。

3年前に、角田学芸員によって、その都合谷の発掘調査が終わり、俵博士の調査地であると確定され図面に載っていなかった構造なども詳しく調査されました。

そして2年前に安衛門谷と呼ばれるところで砥波の発掘が行われました。しかし、その地は俵博士の調査資料に残る配置図と少し異なります。中央の立ち木周辺の平地に調査された、たたらの遺構があります。
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その後の調査のあと、発掘した砥波たたらは新しいものであること、砥波たたらといわれるところはもう1箇所あることがわかりました。古い砺波たたらの上には帝国製鉄といわれる昭和の製鉄所が作られていたらしいのです。ここの発掘が現在行われています。きょうはそのたたら場の発掘現場の現地説明会に参加しました。

どんどん山の中に入って行き、こんなところだと資材の運搬も大変だろうにというところに発掘現場はありました。しかし、こんな山の中だから炭にする雑木が大量に手に入ったわけでもあります。

穴ぼこがたくさんあり、何がなんだか分からない状態。角田学芸員に説明いただきながら地図を眺め、私のわずかなたたら製鉄の知識をフル稼働させて想像してみます。ここに7メートルを越すやぐらがあったり、元小屋と呼ばれる事務所や山内といわれる住居があってたくさんの人が住んでいたんだなって、、、やっぱ今では想像も出来ません。想像力の乏しい季節君ではなおさらです。
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まだ、ここが俵博士の調査地だと確定できない調査段階なのですが少しずつ理解が進みます。

しかし、帝国製鉄時代の設備の遺構もあり、そのしたに砥波たたらの遺構もありでさらに現場はややこしいのです。やはり事件は現場でおきてんだ!状態でした。



わたしが現地の理解に四苦八苦しているころ、現地のお年寄りがおいでなにりました。帝国製鉄時代にここで職員をしておられた方です。

この方のお話を伺いながら現場の学芸員のみなさんたちは帝国製鉄時代の配置を確認され、さらに 明治の砺波たたらの遺構を確定される作業をしておられました。お話をすみで伺っていてもわくわくします。土に埋まった穴ぼこやカナクソ、地層の色や土が焼けた跡。その一つ一つに理由があるんだなって感激してました。

んん、、、、、おもしろいぞ!調査発掘!!

このお話は、砺波たたらであると確認された場合は詳しく発表されることになると思います。

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