ただいま、日野町古文書に親しむ会では「日野郡寺社」という古文書を読んでいます。
そのなかに金屋子神社という項目があります。
これによると、文化四年に黒坂に金屋子神社を建てたいという願いが出ています。
日野郡は鈩が盛んなところだが、鉄がうまく吹けなくて困っている。金屋子神社を建てさせてくれと書いてあります。
鈩は温度や送風など微妙な環境設定で鉄ができたりできなかったりします。
砂鉄10トン、木炭10トンも使って多くの職人が働くのに、鉄ができなかったら大損害になります。そこで鉄山師たちは金屋子神に神頼みをするのです。

さらにこの金屋子神社について調べてみました。
日野郡史にも載っています。
黒坂の金屋子神社は黒坂最大の鉄山師緒方家が建てたようです。場所は黒坂城址とお墓さんの間の山中。
今はもうありません。
緒形家がたたらから撤退して神社を藤森神社に合祀したそうです。大正8年の事でした。
今でも藤森神社の庭に社があります。
いぜん、季節君も見学に行ったのですが、そのときはあまり念を入れてみていなかったため、大きさを覚えていません。
たたみ4枚分くらいの大きさの建物だったでしょうか。祠と呼ぶには大きすぎるなって思った記憶があります。
そして、日野郡誌によるとその中には今でも縁起の古文書が入っているそうです。
「日野郡には金屋子神社がないので建てたら鉄山師たちが助かる」と書かれています
日野郡誌には、日野郡内の金屋子神社を4か所書いていますので、黒坂の神社ができてからあちこちで建てられたのだろうと思います。まだまだ日野郡のたたらは知らないことばかりです。

前回にも書きましたが、このところ境鉄山融通会所諸事控という書物を読み込んでいます。
面谷さんという方から翻刻されたものをいただいたのです。
この内容は、総括したものを簡単に説明したものはありますが、あまりに長いので詳しく記したものはありません。と思います。
そこで時間をかけて読んでいるのですが、今まで知らなかった事実が次々と出てきます。

その中のひとつに足羽伊右衛門が、融通会所から銀を借用し、舟場山で鉄山を操業したいとの申し入れがあったと書かれています。結局この借り入れは成されたようですので、舟場山を足羽伊右衛門が操業したということになります。
はて、この舟場山というのはどこでしょう。
舟場では3か所の鉄山と1か所の大鍛冶の遺跡を見つけています。
(間地道路工事によって埋まりわからなくなった遺跡が、ほかにもあった可能性はあります)

近藤家文書には以下のような記載があったと影山先生の論文には書かれています。
伊兵衛という人がたたらを操業したこと。
近藤家が大鍛冶をしたこと。
手島家が2度にわたって舟場山を操業し、そこには大鍛冶も併設されていたこと。

足羽家については記載がなかったように思います。
遺跡が4か所あって、創業者が4人。頭数は合います。

足羽という苗字は二部にあり、江戸時代から名字帯刀が許されるくらいの家柄です。多分その足羽家でしょう。二部に一番近いたたら場と言えば、峠に近いたたら山ということになります(ただ近いからというだけの理由ではあんちょくに過ぎるとの声も聞こえてきそうです)。

近藤家の鍛冶場はお寺の近くにあります。

いちばん大きなたたら場はヒヤ谷たたら。恐らく大鍛冶もあったはずですから、2回の操業をした松田屋(手嶋家)の可能性が考えられます。
ここまでの推論が正しいとするならば、お寺の直下にある投げ谷たたらが伊兵衛のたた場ということになります。

舟場山については根雨のたたらの楽校からも近く道路沿いにあるため、見学コースを作れないかと以前からのもくろみもあります。
ガイド資料を作るには、もう少し資料を探して勉強が必要ですね。

いよいよ境港でのたたら開始です 2

11:50に1回目のノロ出しが行われました。
高温の炉内にはケラと呼ばれる鉄の塊ができ、その周りに粘土や砂鉄に含まれる不純物ケイ素が熱で溶解し溜まります。
その不純物をノロと呼びます。
炉の底に開けられた穴を突き崩すと、真っ赤に溶けた珪素がノロノロと出てきます。
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炉の底にはしっかりと鉄ができているようで、2回目のノロ出しでは、2つある穴のうちの上の方の穴を突き崩して村下(技術長)がノロ出しをしました。上の穴を使ったのを私は初めて見ました。
13時に砂鉄投入終了。15Kgの砂鉄と炭40Kgほどを使っています(炭は全部使ったかどうか未確認)。
これからしばらく炭を燃やし続けて鉄を固まらせることになります。
炭に砂鉄がくっついた状態のものを見せていただきました。こんな状態で炉の中の砂鉄は解けてゆくのでしょう。
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しばらく時間の余裕ができたので、海とくらしの史料館の中の展示を見せていただきました。
1階にはビデオ展示や、たたらについての説明がありました。
2階には砂鉄を採るための鉄穴流しにについての説明。
どれだけたくさんの山を崩して砂鉄を採ったのかという地図の説明がありました。この砂が弓ヶ浜を作ったのですものね。
それから、境鉄山融通会所の資料もありました。
私も初見の資料なんかもあり、興味津々で見ておりました。

中庭に降りて、カニ汁をふるまっていただき、お弁当タイム。
15時に炉を壊して鉄を取り出します。
すごく高温になっているのでこの工程が一番危険でもあり、鉄を冷やすのに時間もかかります。
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一方で私たちは高殿の解体にかかります。
晩秋の日暮れは早いので、のんびりしていると根雨に帰ったころには真っ暗になってしまうのです。
「おおっつ!!」 ヽ(゚∀゚)ノ ♪ と歓声が上がったのを振り返ると鉄の計量に入っています。
古式ゆかしき年代物の秤の上に鎮座する鉧(けら)。
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なんと9,4Kgの重量を誇る鉄塊があります。理論値ではこれが限界のようです。(15Kg中の鉄成分)
鉄塊はけら(鍛える前の不純物も含んだ塊)ですので、鉄滓も内在しているんでしょうが、それにしても見事な大きさができています。今までで最高の出来でした。

片付けも順調にすすみ、16時過ぎには閉会の挨拶。
「江戸時代より長く続いた境港と奥日野のえにしを大事にして、今後もお付き会いください」
と季節君がご挨拶をして終了となりました。
それにしても、見事な鉄の出来栄え、事故もなく、境港の皆さんも暖かく接してくださって、大変楽しいイベントになりました。
その後根雨に帰り、暗くなるまでに片づけを終了して、無事に一日を終えることができて満足な一日でありました。

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