日南町阿毘縁川平山遺跡に思う

これは季節君の勝手な妄想です。
おもしろい遺跡を見せていただいた興奮に浸りながら、一晩じっくり想像を巡らせました。
この感想については一切の責任は負えませんので、あしからず。

今回発見された遺跡は、私が今まで見てきた中で一番小さい遺跡だと思います。
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写真のとおり、山の斜面を削り取ってごく小さい平面を作っています。
古い時代は、道具も少なく大きな平面を作ることができません。
湿度を防ぐ手段もないので、水の来ない乾燥した高台で製鉄をします。
今回の炉は、小舟がなく防湿構造が未熟です。
炉の周囲に小さい穴を掘って小舟がないか確認されたそうなので、たぶん小舟は存在しないと思われます。
大舟にあたる部分も55cmほどの溝状に掘り下げただけ。
おそらく炉底を叩きしめて、炭を入れていたのだろうと推測されます。
鉄を取り出した際に、炉底も浚えてあるため、詳しいことはわかりません。
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そして、地形的には切り開かれた山の斜面から炉までの距離が非常に短いのです。
山際すぐそばに炉があります。
そこには近世ならふいご座があるはず。
これでは炉の横に大きな設備は作ることができません。
そして炉底にも石を詰めたりはされていないようです。
ちょっとだけ炉底に傾斜があり、ノロを排出するためかなと思ったりします。
確か大山の平安時代の遺跡にも似たような構造があったはず。


このようなことを考えていると、中世とはいえごく早い時期ではないかと思えるのです。
日南町大笹奥新田遺跡の場合は中世末期なので大掛かりな地下構造がありました。

そう考えると、ここは中世の早い時期ではないでしょうか。
もし、1000年頃の平安時代なら、大原安綱の時代になります。
奇しくも、大原安綱の伝承のある山伏塚からはほんの眼と鼻の距離。
ここで作られた鋼で安綱が童子切を作ったらなんてことが頭をよぎります。
その可能性が出れば、日南町に町有力な観光スポットが誕生しますね。
現代の非破壊検査を以て安綱の刀を分析する。。。。なんてことは絶対無理なんでしょうけれど




日南町大原 川平山たたら現地説明会

日南町阿毘縁の大原山に砂防堰堤を作ることになり、昨年あたりから現地にあるたたら跡の発掘調査が行われてきました。
この度その調査が一段落したということで、現地説明会が開催されました。
大原山と言えば、平安時代に伝説の刀工大原安綱が山伏として流れ着き、そこで生産される鋼に惚れこんで刀づくりを始めたという伝説の地です。
季節君としては、ぬあんとしても行かねばなりません。

という訳で、気がはやり,かなりフライング気味に到着してしみました。
まだ、だーれも来ていません。

近接する事務所で待っていたら、よく知っている顔があちこちにみられるようになりました。
やはりたたらマニアの世界は狭いのです。

発掘担当の先生に連れられて山に入ります。幸いにもここの現場は道路からすぐそばでありました。
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かわひら

古い順に
①中世の炭窯跡
②中世の炉跡
③明治の炭窯の跡(取り除きすでにない)
が見つかっています。


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手前が中世の炭窯跡。奥左が製鉄炉。奥右の白っぽいところはトレンチで真砂の地層です。
正直、私は炭窯などどうでもよいのですが、中世の炭窯はおそらくたたらに使うための炭を焼いたのだろうと推測されます。
問題の製鉄炉は長さ5.8M 幅1.0M 深さ0.55M の地下構造を持っておりました。
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近代の炉と比べると幅がせまく地下構造もすごく簡単なものです。
地下構造は長いのですが実際に炉があったのはもっと短いだろうとの推測です。
2本の柱の跡があることから、簡単な上屋があったようです。

山際からの距離が短くってふいごや砂鉄置き場が作れないねとか、炉底が斜面になってるのはノロを流し出すためだったのだろうかとか、いろんな推測を見学者の間でワイワイガヤガヤ。
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当然ながら大きな流動滓があります。

見学者に中途半端な知識があるだけに、説明している先生も、やりにくかっただろうなと思います。
楽しかったけれど、お騒がせしてすいませんでした。
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帰りがけに見ると、ほんのすぐそば数百メートルに大原安綱の居たとされる伝説の地があります。
ただ安綱は平安の人。今回の遺跡はどれくらいの年代測定がなされるのでしょう。
どちらにせよこの近辺はさかんに鋼作りが行われてきた歴史が証明されました。

江戸時代の黒坂村絵図

先日見つけた黒坂村の町割図を繋いでみました。

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すると、いろいろと見えてくるものがあります。
福田屋敷の維持管理のため町の人たちが持ち回りで役目を負っていたようです。
この家は札二枚、この家は札五枚と書かれています。
大きな家程負担が大きいので役目の量に間違いなさそうです。

そしてこの当時の黒坂村は住宅地ではなく商業地になっていたみたいです。
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下段右から5番目
割鉄屋というのはおそらく鉄の小売でしょう。
たたらで出来た鉄を砕いて小割鉄にします。
それを小売りするのが割鉄屋だと思います。

鉄を売るところがあるからには、その鉄を加工するところもあるはずです。
ここには映っていませんが鈑冶屋というところがあります。
かじ屋と読みます。
小割鉄を使って、鍬、鎌、鉈、包丁などの生活用品を作っていたのでしょう。
小割鉄から製品を作るには、小割鉄に内包されている不純物を叩き出し、鉄の質を均一にし、場合によっては炭素量の調節迄することになります。
いわゆる鉄を鍛えるというやつでしょうか。
当時の鍛冶屋さんはそこまで出来たと話には聞いています。

ほかにも油屋とか石屋とか書かれています。
梅屋とか平野屋とか屋号だけ書かれていて、どんな商売をしていたのかわからないお店の名も多く書かれています。
昔の黒坂を御存じの方がご覧になればもっといろいろな事がわかるのでしょうね。
黒坂村はとても活気があったのではないでしょうか。

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