都合山遺跡のメンテナンス作業

鳥取県日野町に都合山という製鉄関連遺跡があります。
ここは明治に砂鉄を使ったたたら製鉄を行い、軍部などに和鉄を供給しました。
まだ八幡製鉄などは稼働しておらず、日本の主要な製鉄所の一つでした。
その都合山鉄山を当時の東京大学の俵国一先生が調査し報告書を作りました。
古来の砂鉄精錬法という本になっています。
また、都合山鉄山の創業者であった近藤家には、江戸時代からのたたら関連文書が10万冊も残っています。
そこにもこの都合山のことが詳しく書かれた文書があります。

そしてこの鉄山は閉山した後、ずっと山中に取り残されたままでした。
15年前に再調査されるまで……
発掘調査されると、いろいろなことがわかってきました。
炉の地下構造は極めて複雑にできています。
鉄を製品化するために大鍛冶が2か所ありました。
鉄を冷やす池、動力の水車小屋、鉄を割るための大銅場、砂鉄洗い場、金屋子神社、職人の暮らす長屋など、様々な建物跡があります。
周囲の山には砂鉄を掘った跡や水路が延々と続いています。
土砂を粉砕するための滝や、砂と砂鉄を分離させる選鉱場なども見つかりました。
まだ調査は続いており、全容は見えていません。

それはさておいて (どっこしょ と置いておきます)

18日に遺跡の草刈りをしました。
草ぼうぼうでは、見学者も困ります。
地元上菅自治会。日野町教育委員会。奥日野ガイドクラブ。伯耆国たたら顕彰会からの動員です。

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仮設トイレも整備され、道もかなり綺麗になっています。
遺跡の説明看板もできました。
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看板にスマホをかざすと、創業当時の動画(アニメ)も観ることができるようになっています。

日野町上菅または畑集落から20分程度山道を歩きます。
足に自信のある方はおいでになってください。

たたら通信13号

伯耆国たたら顕彰会の活動報告「伯耆国たたら通信」VOL13ができました。
もう13号になるのかと感慨深いものがあります。
たたら顕彰会を作って13年もたってしまったのですね。
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今年のたたら通信の内容は以下の通りです。

つながるマルシェINえるもーる
角田先生の新書と出版記念講演会
日野町文化財保存活用地域計画
日南町内の製鉄関連の発掘調査計画について
令和4年度写真で見る顕彰会の活動報告
舟場のたたら遺跡
都合山たたら遺跡整備とツアーについて

いろいろ書いてます。もう最新号を日野町図書館には収めました。
日野町図書館には1~13まで、すべての号がファイルされています。

10日に開かれた顕彰会総会でも配布されました。
顕彰会の会員さんのお手元には13号が郵送されています。

そういえば、総会での今年の事業計画の中に、新規会員募集という項目があります。
今のスタッフがだいぶ年を食ってきたので、手伝っていただける方を募集します。たたらに興味のある方ご連絡ください。
事務局直通TEL 090-3639-6446

私の地元、鳥取県日野町に残る古文書整理のボランティアをしていました。
皆さんが下読みされた古文書を最終的に確認するという恵まれた役回り。
しかも県立公文書館の伊藤先生の補佐をするという大変名誉な役回りでありました。

私のもとに、一冊の古文書が回ってきました。
そんなに古そうではありません。
少なくとも江戸以降です。

表紙には上菅村鉄穴控(だったと思う)とあります。
日野町上菅地区の砂鉄採取場、その土地所有者について書かれているようです。
こんな古文書が突然出てくるから油断なりません。


昨年、島根県の角田博士が都合山(鳥取県指定文化財の製鉄遺跡)周辺で砂鉄の採取場(鉄穴場)遺跡を発見されました。
それは山から山へと水路が張り巡らされ、総延長は2Kmを越えます。
下原重仲の鉄山必要記事を読み込むと、水路の傾斜や、方位、地形、滝から走りの様子まで、あるべき姿が書かれており、都合山はまさに書かれている通りの鉄穴場だった驚きがありました。
その後、さらに大和大学の徳安先生が航空写真を分析され、都合山から上菅集落までの鉄穴流し跡を発見されました。
角田先生の遺跡はその一部だったようです。

ということで、今回見つかった古文書はその周辺の鉄穴場の地主を書いた一覧のようです。
都合谷、人向山、福長という地名が見て取れます。

日本最大の鉄生産者であった近藤家の蔵に眠っていた古文書には、
人向山→都合山→菅福山と10年ごとにたたら場を移動した記録や生産の様子を細かく記した文書があります。それを見事に反映している古文書でした。

今回見つかった上菅村鉄穴控に載っている小字(こあざ)を地図に落とし込み、辿って行けば、鉄穴の全容がわかるかもしれないと教育委員会の友人は言っていました。

残念なのは、私が油断していたのでカメラを持っていなかったことです。
鉄山師近藤喜八郎氏のお名前もあちこちに記載されていましたので、明治後期から大正10年頃迄の文書でありました。

もう一度最終確認をするときに、この文書が回ってくると思いますので、その時には必ずカメラを持って来ようと思います。
しかし、膨大な数の古文書ですので、いつどこでどんな文書に出会うのか、いつになったら終了するのか、さっぱりわかりません。

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