舟場鉄山群について新たな資料に戸惑う
日野町では「文化財保存活用地域計画」が策定され、文化庁から認可を受けました。
現在はその推進に向けて日野町教育委員会が中心となって活動している最中です。
私も一委員として微力ながら活動に参加しています。
根雨のたたらの楽校とその周辺は、近藤家を巡る多くの文化財が集積している地域です。
近藤本家(鳥取県指定文化財)、出店近藤家(たたらの楽校)、山陰合同銀行跡地(近藤家設立の根雨銀行が基になっている)、公会堂(国登録文化財)、勝瀬家、酒近藤家、本陣の門、根雨本宮(鳥取県で最古の神社建築)など。
これを観光の目玉にするべく磨き上げを行うのですが、さらに観光要素として深みを出すために舟場の鉄山遺跡もそのファクターに加えようと考えており、そのためにはもう少し舟場山の歴史について掘り下げておく必要があります。
舟場山と呼ばれる鉄山群については以前から調査を続けていて、鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷の大鍛冶跡を確認しています。(鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷はたたら場跡。大鍛冶は近藤家が操業したことがわかっています)
その資料として故影山猛先生が伯耆文化研究で発表された「近藤家による鉄山」を参考にしました。
影山先生の論文には3か所のたたら場が記載されているのですが、それ以外にもたたら場があった可能性が出てきました。
以前紹介した境鉄融通会所の足羽伊右衛門のたたら(足羽家の舟場山鉄山操業の記録 : たたらの里 奥日野BLOG)はどうやらこの論文には書かれていないようです。
さらに今日「舟場の部落誌」で見つけた記述には、正音寺の過去帳からの調査で鉄山墓の記録がありました。
鈩山たたらでは明治8年に4人。明治10年に2名が死亡しています。
ヒヤ谷たたらでは文政8年に1名。明治1年に3名が死亡しています。
いずれも近藤家文書を解読された影山先生の論文にはたたら場としての操業記録がありません。やはり論文にはすべてのたたら場がもれなく記載されていると考えるのは無理があるようです。
調査するにつれて舟場山の鉄山群については、その実態がますますわからなくなってきました。
現在はその推進に向けて日野町教育委員会が中心となって活動している最中です。
私も一委員として微力ながら活動に参加しています。
根雨のたたらの楽校とその周辺は、近藤家を巡る多くの文化財が集積している地域です。
近藤本家(鳥取県指定文化財)、出店近藤家(たたらの楽校)、山陰合同銀行跡地(近藤家設立の根雨銀行が基になっている)、公会堂(国登録文化財)、勝瀬家、酒近藤家、本陣の門、根雨本宮(鳥取県で最古の神社建築)など。
これを観光の目玉にするべく磨き上げを行うのですが、さらに観光要素として深みを出すために舟場の鉄山遺跡もそのファクターに加えようと考えており、そのためにはもう少し舟場山の歴史について掘り下げておく必要があります。
舟場山と呼ばれる鉄山群については以前から調査を続けていて、鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷の大鍛冶跡を確認しています。(鈩山遺跡、ヒヤ谷遺跡、投げ谷遺跡、投げ谷はたたら場跡。大鍛冶は近藤家が操業したことがわかっています)
その資料として故影山猛先生が伯耆文化研究で発表された「近藤家による鉄山」を参考にしました。
影山先生の論文には3か所のたたら場が記載されているのですが、それ以外にもたたら場があった可能性が出てきました。
以前紹介した境鉄融通会所の足羽伊右衛門のたたら(足羽家の舟場山鉄山操業の記録 : たたらの里 奥日野BLOG)はどうやらこの論文には書かれていないようです。
さらに今日「舟場の部落誌」で見つけた記述には、正音寺の過去帳からの調査で鉄山墓の記録がありました。
鈩山たたらでは明治8年に4人。明治10年に2名が死亡しています。
ヒヤ谷たたらでは文政8年に1名。明治1年に3名が死亡しています。
いずれも近藤家文書を解読された影山先生の論文にはたたら場としての操業記録がありません。やはり論文にはすべてのたたら場がもれなく記載されていると考えるのは無理があるようです。
調査するにつれて舟場山の鉄山群については、その実態がますますわからなくなってきました。