才の原たたら遺跡 2

このたたら跡から黒坂方面に三十メートルほど離れたところも試掘されていました。人工的に整地されているので、いかにも何かありそうだったのでしょう。
tyaya

研究者の方がナイロンバッグを取り出して見せてくださいました。

そこからは陶磁器と鉄器が発見されているそうです。
工具金属

季節君は見たことがない代物ですが、鉄工具は細く尖っていて錐か鑿のような働きをしたのでしょうか。青谷上寺地では、もっと粗末ながら木工の彫刻に使ったであろう尖頭具が見つかっています。それをイメージしてしまいます。
陶磁器

陶磁器は呉須の染付が淡い色で、江戸時代末期の色の特徴があるそうです。

すり鉢も有り、たたら場というより生活感を感じさせます。たたら遺跡とは時代的なずれもあるので民家だった可能性が高いそうでした。

たたら場でもっとわかることはないでしょうか。

黒坂といえば緒方?と思ってしまいますが、江戸時代初めの鉄山師はわからないことだらけですので、操業家はいまのところ不明だそうです。

季節君は、こういう試掘段階での調査を初めて見るので、勉強になりました。どっかーんと大規模な発掘現場ばかりを見ているので、こういった地味な調査を重ねてサンプリングすることが大事なんだなと思います。

素人があれやこれやと質問攻めにして、研究者の方の仕事の邪魔をしてすいませんでした。

しかし、縄張りから見るに、ここも道路拡張に伴いなくなってしまいそうです。

そのまえに坊主石が出てきたら、今一度お邪魔させてほしい、その時には派手な調査現場になっているんだろうなと思いました。しかし、工事現場を邪魔するわけにもいかない、難しい状況ですね。

 

才の原遺跡調査


道路拡張工事に伴いたたら遺跡の調査があると、教育委員会から連絡がありました。

たたら顕彰会の末席にあり、文化財保護審議委員でもあるからとお声をかけていただいたことをありがたく思います。

場所は才の原たたら。

これを聞いてピンと来た人は奥日野のたたらについてはスペシャリストです。

といいますのは、根雨公会堂に坊主石があり、説明書きには才の原から出土したと書かれているのです。やはり道路拡張工事の際にのり面に露出したらしいです。
坊主石とは、たたらの炉の下に湿気が上がらないように大きな石を敷き詰める。加工されて尖った石のことです。
公会堂のぼうず石のリンク

どんなふうに埋まっているのだろうと、興味津々で調査現場にゆきました。

しかし、現場はまだトレンチを浅く開けただけの状態でした。説明をお聞きすると、ここからさらに2メートルは掘り下げないと坊主石は出てこないだろうとのこと。
zenntai

さらに周囲は道路で削られていて全体像はなかなかつかめない状態でありました。道路ののり面を崩すわけにもゆかないし、大規模な調査は難しいそうであります。

 

トレンチ(試掘溝)の中には、いくつかの縞模様を見ることができます。
旧床釣り

最初の黒く焼けた跡は古い床釣りだとのこと。向きは日野川に平行気味になっています。
小舟DSC07105

そこから5メートルほど行ったところに小舟と思われる焼土の跡、さらにカーボンベッドが続いているのは、あきらかに新しい大舟です。しかし、大舟は前の工事で削り取られています。
カーボンベッドDSC07106

おそらく江戸時代前期の物であろうとのお話でした。
写真では方向がわからないのですが、
炉の向きが道路に直角に向いているのは、この炉の横に小川があったためかなくそ捨て場に使った可能性があるそうです。しかし、そこは今では石崖になりその下は田んぼに作り替えられていたのであります。

やはり現場を見ないと、写真だけでは臨場感が伝わりません。
写真を撮ったり、勝手な憶測を喋ったりしていると

「この先に試掘したところでは、いろいろと出土していますよ」と気になる説明がありました。
それはぜひ、行ってみなくてはなりません。

ε=ε=ε=(((●’▽’) ダッシュ!!!

つづく……

新説といっても、昔から伝わるお話を季節君が知ったというお話です。

京都府八幡市に相槌神社というところがあります。
ここで安綱が髭切膝丸を作ったという伝承がありました。

古文であった社伝を訳してみます。
 

一 事由 創立年月不詳 社伝に伝ふ、当社を合槌神社と称するは、筑後の国三笠郡土山住鍛冶某多田光仲公に召され武将にも朝廷に伝え給う三種の神器に准へて相伝し神剣を得んと彼の地の鍛冶に命ぜられしか心に叶わずとて用いられざるを無念に思い、男山本宮に参籠して神託を賜り二振りの剣を得て光仲に献す罪人を斬りて試し玉ひて之を髭切膝丸と号す後源頼光の時奇怪事あり鬼切蛛切と名を改めその後に小緑友斬と名を改へ後世一振は北条氏より足利尊氏に伝へ一振りは新田義貞に伝はり後徳川氏の手に入ると伝えその剣を当時山下に在山の井の水を用い……


徳川の時代のことまで記載があるので、近世になって書き換えられているということがわかりますが、伝承自体は昔からあったのでしょうね。

 
いくつか指摘したいと思います。

〆((。_。)))

三種の神器として伝わる剣とは「天叢雲剣」に違いありません。それを作った彼の地といえば「伯耆国」となります。
つまり伯耆国の安綱が多田光仲に招聘されて、今の京都府八幡神社に祈願し、山の井の水を使って刀を作ったということになります。それが社伝のように髭切、膝丸と呼ばれ、薄緑や蜘蛛斬に名を替えたのなら平家物語の記述と一致してきます。

すると、伯耆の刀鍛冶安綱が京都に行って刀を作った可能性もあるのかなと思います。
ちなみに山の井は名水で有名で、三条宗近もここの水を使ったらしい。
三条宗近は細く中反りの作風でありながら古鍛冶ですので、安綱とお互い影響を与えたかもしれません。どっちが先かはわかりませんが。








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