角田先生の新刊出ました。~たたらの実像を探る~

新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」No157

いいですねー。
中国山地各地に山ほど眠っているたたらの遺跡。

その研究の急先鋒、角田博士が書き下ろしておられます。

明治時代の冶金学者 俵国一先生の調査されたたたら場の資料に基づいて、いまも残る現地の遺跡を調査された記録です。

都合山、戸波、値谷の遺跡についての項目が見受けられます。



ちらしのコピー

たたら顕彰会でも取りまとめをしていますが、生山の本庄書店が販売窓口になっています。
8月18日から販売開始。
どうぞ皆さん、ご購入ください。

なお、伯耆国たたら顕彰会では、9月に角田先生によるご講演、都合山の現地説明会を企画中です。
この本の内容を解説していただきますので、お楽しみにしていてください。

江戸時代の鳥取藩は、有力家臣が領地を預かり、それを治めるという自分手政治が行われていました。
奥日野の場合、福田家が領地として自分手政治を行っていたため、日野町古文書に親しむ会では「福田久道家譜」を解読しました。
コロナの影響もあって、たびたび会合は中断し、120ページを解読し終わるのに3年を要しました。
それは季節君が、古文書を読み解くのに時間がかかったためでもあります。
おかげで、この文書を読み終わるころには、右筆が書いた文字なら少しは読めるようになっていました。

このたび、全文を読み終わったことを記念して、ワードで清書してみました。
それは60ページにもなりました。
改めて読み直してみて、いろいろ面白いこともわかりました。
その一部を紹介します。

初代、福田牛之助は豊臣秀吉に仕え、城州(山城の国、京都の南)葛野村を領地とします。
慶長6年。福田和泉が池田忠継に仕え、岡山に移ります。
寛永9年。福田内膳のとき鳥取藩と岡山藩が総入れ替えになり(お国替え)鳥取藩に移ります。
領地を黒坂周辺17か村に与えられ、自分手政治を始めます。
~それから、いろいろと起こりますが割愛~

安政元年、福田丹波は異国船の警戒に駆り出されます。
文久3年。福田造酒が急遽黒坂警備を命ぜられます。
それはなぜか。
元治元年。京都から作州路を通り、20人の藩士がやって来ます。彼らは黒坂で慎みを命ぜられました。
これがいわゆる本圀寺事件。当時の鳥取藩は幕府支持に傾いていたのですが、一部の尊王攘夷派の藩士が京都本圀寺において、鳥取藩重鎮を暗殺しました。クーデターを起こし黒坂に押し込められたのが、因幡二十士です。
この警備のため、多くの兵士が黒坂を守りました。
帯刀の他国者は宿してはならない。逆らうものは討ち取っても苦しからずとか物騒なことが書かれています。



慶応元年、福田造酒は長州討伐を命ぜられ、2番手として出陣します。
明治三年。ご改正により、福田毎男は、日本政府に領地と家臣を返上しました。

こんなことが120ページにわたって書かれているのですが、たたらについては一言も書かれていません。
やはり、幕藩体制の基本となったのは米。
領地はそこで採れる米の石高で表されます。
やたらと石高のことばかりが書かれていました。

少しくらいはたたらのことも書いてあるかなと思ったのですが、かすりもしませんでした。
たたらの繁栄は福田家を潤すことはなかったのでしょうか。






ついに発見!古文書の海を行くと、たたら文書に行きついた。

先日、日野町古文書整理のボランティアに参加していました。
山のようにある古文書を、手分けして整理しています。
古文書のタイトルや記載年、筆記者をカードにしてリストを作っていました。

その日、私は明治八年の文書の束を調べていました。
その中に、ある集落の「建物控え」がありました。
当時の固定資産台帳のようなものでしょうか。
記載年や筆記担当者の名前はありません。
そこで勘の良い私は「この集落にはたたらがあったな」と気づきました。
普通は文書の中身まで読んだり、という面倒なことはしないのですが、このときは文書の精に呼ばれたのでしょうか?
何やら胸騒ぎがして1ページずつめくってゆきました。
本当はこんなことをしていたら、時間がかかって仕方がないのですが、中身を読むのは面白いです。
すると、20ページほどめくったところにたたら関連らしい建物名が記載されています。

おそらくここは、季節君が以前調査したことのあるたたら場でありました。
しかしその時は、きちんと場所を特定することもできませんでした。
いわば、私にとっての幻のたたら場です。
季節君は小さくガッツポーズをしてしまいました。

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本小屋や高殿と思われる建物があります。
大鍛冶が二軒あるところからかなり大きなたたら場だと思われます。
折場もあります。
雪隠がやたらと多いのはなぜでしょう?
職人の半分が通いで、半分が住み込みだと想定すると、長屋が多い事から職人数もかなり多そうです。
だからトイレが多いのかなと思ったりもします。

そして、なんという偶然でしょう。
私のとなりで整理をしていた人が、地図を発見されました。
しかも同じ村の地図です。
こんなことがあるでしょうか。
季節君は、思わず万歳を叫んでしまいました。
ばかです。

かなりの枚数で綴られた地図には、全体図と部分拡大図が記載されてありました。
これには建物は書かれていません。

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番地から行くとこのあたりです。

今までの調査でも、このたたら場の存在は知られていましたが、もし明治八年頃の資料だとすると今までの定説が全く覆されてしまします。
それに、公文書でここまではっきり建物の構成が記されているのもめずらしいと思います。

地図も30ぺーじくらいありましたし、精査するとさらにわかってくることもあるでしょう。

古文書調査も大切です。
これからはもっと気合を入れて古文書整理のボランティアを続けましょう。

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