人向鉄穴文書を発見!
日野町では文化財保存活用地域計画がひそかに進行中です。
町内に残る古文書を保存するとともに調査もします。
そんな中、あちこちのおうちに残る古文書が寄付されるようになりました。
見た目は汚ったねー紙屑ですが、中に書いてある内容は貴重なものであったりするのです。
ですから油断はなりません。
今回の調査では人向鉄穴という文字が目につきました。
人向山というのは、江戸時代には黒坂の緒方家が操業したたたら場で、明治時代には近藤家が都合山から人向山に移転したことが知られています。
どうやら、その人向山にあった鉄穴流しのようです。

ざっと読むと(間違いも多々あろうかと思います。あまり信用なさらないでください)
覚
奥日野郡上菅村の内
一 人向鉄穴壱口 御運上銀四匁 右鉄穴去戌秋より当亥春の来る比まで流し方休み口
仰せ付けられ入用米銀御下げ置きなされ候様願い奉り候左の通り
井出敷
一 銀札 二十匁 上菅村 長右衛門
右 口引
一日 拾五匁 同村 亥左衛門
〆 三拾五匁
出志”伺 壱り料共
一 米壱石三斗 楢原村甚右衛門
出志”伺料
一日 三斗 上菅村 助左衛門
一日 四升 同村 源左衛門
一日 五升 楢原村 五右衛門
〆 壱石六斗九升
他 三百拾匁三分七厘
但戌冬払〇亥段キ状
〆三百四拾五匁三分七厘
右の通休口鉄穴入用米銀御下げ被
仰付糧有仕合慥か受取右人別夫々江
相渡申上候 以上
鉄元持主
緒形三郎右衛門名代
黒坂村 宗右衛門
組頭上菅村
櫃左衛門
庄屋口村
助左衛門
足羽助八殿
と書かれており、緒形家から鉄穴場の管理者に対して休業補償のようなものが出されていたことが伺えます。
鉄穴流しは秋の稲刈り後から春の田植え前までの冬が稼ぎ時だと習ってきました。そのシーズンを何らかの理由で休ませるための保証でしょうか。

もう一通は「人向ろの山鉄穴?壱口 御運上銀四匁 但し真砂鉄穴、、、」
このような文書や、支払いの明細を書いた文書の束がいくつか出てきました。
そういえば、人向鉄山の向かいにあるはげ山は鉄穴山と呼ばれていました。
そして水路跡もありました。
そのあたりの持ち主や管理者への支払いがなされていたのでしょう。
当時暮らしていた人々の息吹が感じられるような文書でした。
まだはっきり読み込めていませんので、少しづつ勉強しようと思います。
町内に残る古文書を保存するとともに調査もします。
そんな中、あちこちのおうちに残る古文書が寄付されるようになりました。
見た目は汚ったねー紙屑ですが、中に書いてある内容は貴重なものであったりするのです。
ですから油断はなりません。
今回の調査では人向鉄穴という文字が目につきました。
人向山というのは、江戸時代には黒坂の緒方家が操業したたたら場で、明治時代には近藤家が都合山から人向山に移転したことが知られています。
どうやら、その人向山にあった鉄穴流しのようです。

ざっと読むと(間違いも多々あろうかと思います。あまり信用なさらないでください)
覚
奥日野郡上菅村の内
一 人向鉄穴壱口 御運上銀四匁 右鉄穴去戌秋より当亥春の来る比まで流し方休み口
仰せ付けられ入用米銀御下げ置きなされ候様願い奉り候左の通り
井出敷
一 銀札 二十匁 上菅村 長右衛門
右 口引
一日 拾五匁 同村 亥左衛門
〆 三拾五匁
出志”伺 壱り料共
一 米壱石三斗 楢原村甚右衛門
出志”伺料
一日 三斗 上菅村 助左衛門
一日 四升 同村 源左衛門
一日 五升 楢原村 五右衛門
〆 壱石六斗九升
他 三百拾匁三分七厘
但戌冬払〇亥段キ状
〆三百四拾五匁三分七厘
右の通休口鉄穴入用米銀御下げ被
仰付糧有仕合慥か受取右人別夫々江
相渡申上候 以上
鉄元持主
緒形三郎右衛門名代
黒坂村 宗右衛門
組頭上菅村
櫃左衛門
庄屋口村
助左衛門
足羽助八殿
と書かれており、緒形家から鉄穴場の管理者に対して休業補償のようなものが出されていたことが伺えます。
鉄穴流しは秋の稲刈り後から春の田植え前までの冬が稼ぎ時だと習ってきました。そのシーズンを何らかの理由で休ませるための保証でしょうか。

もう一通は「人向ろの山鉄穴?壱口 御運上銀四匁 但し真砂鉄穴、、、」
このような文書や、支払いの明細を書いた文書の束がいくつか出てきました。
そういえば、人向鉄山の向かいにあるはげ山は鉄穴山と呼ばれていました。
そして水路跡もありました。
そのあたりの持ち主や管理者への支払いがなされていたのでしょう。
当時暮らしていた人々の息吹が感じられるような文書でした。
まだはっきり読み込めていませんので、少しづつ勉強しようと思います。